ほぼ一年まえのことである。ある集まりで研究発表のあと、オーストラリア、韓国、日本と、めずらしく多国籍の友人、知人のまえで、雑談のつもりで「絵巻は漫画のルーツだ」と持ちかけたら、意外な反応に遇った。いまさらなにを、といった思いを顔に書いたような人もいれば、それはおかしいと、声を大にして反論する友人もいた。この簡単なテーマは、やはり考えを整理しておかなければならないなあと、なぜか鮮明に記憶に残る一つの瞬間となった。
ことの順序として、まずはマンガとはなにか、ということを限定しなければなら。マンガ、まんが、漫画。同じことでありながら、表記からにしてすでにこれだけ豊かなイメージを抱かせてくれている。
今日、実際の表現として使われているマンガとは、まずは一つのタイトルで古本屋の棚の数段を優に占め、それだけを内容とする分厚い週刊誌がウン十万も売れてしまい、子供(だけ)ではなく大の大人たちが読み漁るというあの出版物のことだろう。これに対して、毎日の新聞の最後を飾る四つの枡形からなるもの、普通の週刊誌によく見かける枡型の多めのものもあるが、マンガの一部であっても、どうやら「四コマ」「コミック」といった限定した言い方にはより相応しい。
マンガのことについて、オンライン事典ウィキペディアにはとても読み応えのある記述がある。とりわけ、国語史的な目配りには感心した。それによれば、「漫筆」という表現に対応する形で生まれたこの言葉の最初の使用例は、十八世紀の終わりにまで遡り、十数年も経たないうちに、「気が向くまま」の漫画が、気が戯れる戯画という要素が意識的に付け加えられた。それよりあとは、この言葉がさかんに使われる間に、指す意味がさまざまな形で膨らみ、時代風刺のものから始まり、はてには、七十年代までにアニメや特撮の映画のことまでこれを用いて表現したぐらいだった。ちなみに、この日本発の言葉は、そのまま中国にもたらされ、いまでもほぼ同じような意味合いで使われている。
そこで、マンガの根本的な特徴とは、どのようなものだろうか。やや乱暴に、つとめて最大限に要約するとすれば、「絵による物語」と結論して、あながち間違いではなかろう。となれば、絵巻とマンガとの共通点はどうしても目に入る。もともと、絵巻とマンガどころか、絵巻と現代の映画との共通点を、カメラアングルのレベルで捉えようとする論者さえいるわけだから、同じく紙を媒体とする読み物、ということでは、その距離がいたって近いということが理解しやすい。
絵巻は数百年もまえから延々と作られ、伝えられてきたものだ。出版文化が発達になった江戸時代では、巻物が相変わらずに作られる傍ら、絵による物語表現を目玉とする出版物は、さらにさまざまな形態になって世を賑わせた。そして、今日になって、マンガとは、日本のユニークな文化の代表格と成長した。文化がつねに連続していて、今日の果実はつねに過ぎ去った歴史の中で養育されきたという考えからすれば、絵巻はルーツだ、と主張してよかろう。
いうまでもなくこのような議論は、絵巻への贔屓な視線から出発したものにすぎない、との批判も受けるものだろう。たしかに、似ているところだけ注目し、両者の隔たりを無視したり、過小評価したりすることも、一方では否めない。しかしながら、このようなルーツ論は、もともと絵巻とマンガとのいっしょにくっつけることを目的としない。それよりも、むしろあまり関連のない二つのもの、少なくとも二つを同様に貪欲に楽しむ人々の数がおそらくかなり限られているものを並列させることを通じて、古き絵巻への親近感を呼び起こし、さらにそれへの観察の新たな立脚点が確保できれば、との思いのほうが大きい。そのような目論見がすこしでも達成できれば、有意義なものだと考えたい。
「絵巻とマンガの間」。このテーマには、いろいろな議論の切り口が可能だ。作者の意図、社会生活の中の役目あるいは位相、表現の技巧や定番、などなど、並べれば尽きない。考えをもっと整理していかなければならない。
2008年5月25日日曜日
絵巻とマンガの間
Labels: 内と外・過去と現在
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