絵は動かない。さらにいえば、人間や物事の動きを表現するためには、絵は表現媒体として、あまり向かない。しかしながら、ストーリを内容とする絵巻においては、動きが表現の基本だ。動きがなければ、絵巻自体はそもそも始まらない。
具体的な例はいくらでもある。たとえば、愉快な『福富草紙』の中の一こまを見てみよう。写真は立教大学文学部図書館所蔵の巻物からの引用である。このご老人、作品の題名となる福富という人間ではなく、その人の敵役で、文字通りに福と富を手に入れて出世した秀武という男だ。これを囲む大きな場面は引用しきれないが、それを説明すると、驚異の眼差しを一斉に注いだ老若男女の生き生きとした群集だった。かれらは一様に熱狂し、口々に感嘆の声を漏らしていた。そのような視線と歓声に答えつつ、秀武は一大の芸の見せ場を繰り出していた。描かれている激動した姿や振る舞いからは、さしずめブロードウェーのタップダンスを連想させてしまう。しかしながら、知る人ぞ知っているが、芸、あるいは常人離れのショーであるに違いないが、その内容とはなんと屁を鳴らし続けるというものだった。この話の由来には、けっこう長い歴史があり、この絵巻はそのような滑稽談を絵画化することに成功している。同じ系統の作品には、屁そのものを曲線などを用いて誇張的に表現する構図も見られるが、ここでは、軽快な踊りを持ち込んだことをもって秀武老人の見せ場を表現し、したがって、放屁の芸についての、絵師の一つの理解や工夫だったに違いない。
平面で二次元の絵は、時間的に続く動きを表現するには、明らかに限界がある。絵に描かれたのは、静止した瞬間にほかならない。ここでは、静止をもって動きを表現するための工夫は、いたって単純だ。すなわち、現実の中では一瞬でしかない、静止できないものを画面上に再現するものである。この絵で言えば、秀武の深く曲がった膝、風に高く靡く袖や裾などは、その典型だろう。思えば、限られた空間において動きを表現するに、これが一番経済的な方法である。長く続けられない一瞬の様子であるだけに、それの前後の時間の展開が自然に想像の中で広がり、描かれきれないものも、読む人が虚像をもって補っていくことを誘われる。
まえに絵の饒舌について考えた。それの反対としての洗練も思いに浮かんだ。動きの表現は、絵における磨き抜かれた、細心に配慮を配った工夫の一つだと言えよう。誤解をさけるために、さらに付け加えておこう。饒舌というのは、絵の特殊なケースであるのに対して、ここに見る動きの表現は、絵巻の絵のいたるところに認められて、いわば絵巻の「文法」の基本のなかの基本なのだ。
2008年5月11日日曜日
絵の動き
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