2002年2月1日金曜日

長谷雄の冒険

二〇〇〇年の春、永青文庫から特別の許可を得て、『長谷雄草紙』を閲覧させてもらった。古風の家具を飾り、カーテンがしっかりと閉まった一室に案内され、中世の秘宝をこの手で披いて、少なからぬ感動を覚えた。あれから早くも二年近く経とうとするいま、ようやく『鬼のいる光景』と題する小さな一冊をまとめることができた。

『長谷雄草紙』は、由緒正しい伝来を誇り、江戸時代に多数の模作を残して幕府の終焉と共に姿を消し、昭和に入って再び世に現われた絵巻の名作である。一巻の絵巻としては短い作品の部類に入り、これまで十分に研究されたとは言えず、いまなお神秘なベールに包まれている。物語の出自は、近年ようやくそのおぼろげな輪郭を見せはじめたが、いまだ不明なままだ。だが、絵巻の内容は理屈抜きに楽しい。長谷雄がかれの知遇の師だったはずの道真のことを「北野天神」と呼んで加護を願うといったとんちんかんな時代錯誤を平気でしでかす一方、貴人と鬼とが双六を打って美女を賭けるという、スリリングで奇想天外、いささかエロチックな展開は、見る者を魅了する。この絵巻は、いったいどのように読まれていたのだろうか。ややもすれば「双六賭博」「子どもの遊び」など現代人の興味をそそる断片的な画面だけに関心が寄せられるが、長谷雄の冒険を伝える絵巻としての完成ははたしてどのようなものだったのだろうか。

これらの質問にすこしでも答えられるようにと、長谷雄をめぐるわたしのささやかな冒険が始まった。

そもそも、わたしたちは文字によって記されたものより、絵に描かれたものに安心感を持ち、これをすなおに信用し、絵は嘘をつかないと無意識に決めつけてしまいがちだ。古代の様子を伝えるビジュアル資料が非常に限られているため、絵の説得力に心を奪われることはたしかに致しかたなかろう。だが、絵は写真ではなく(写真だって嘘をつくが、それは別として)、あくまでもフィクションだ。絵に描かれるもの、それの描き方などは丁寧に選択され、構想されたことはいうまでもない。したがって絵を理解するということは、すなわち絵師が試みた工夫と技巧を知ることであり、絵師と読者との間にあった約束を模索することである。

例えば、絵の中における時間の表現である。絵巻の絵は、けっしてものごとの展開を止め、その一瞬を切り取って描いて見せるのではなく、長谷雄と鬼との双六対局、都大路における鬼退治、などの場面にみられるように、限られた画面において、あきらかにいくつもの異なる時間が流れており、見る者はこれを想像のなかで還元させることが要求される。一方では、長谷雄と男が通る都の街角に、われわれは賑やかで和やかな夕暮れのひと時を目撃したかのように錯覚するが、そこに隠されたテーマを見つけ出すことに成功すれば、これは関連する人物・事項を寄せ集めることにより巧妙に作り出された虚構の世界だと自ずから気づくことになる。ここで、一番のチャレンジは、絵に描かれたもの、絵が語ろうとしたものを、時代の背景や知識を頼りにして見つめ、昔の読者の視線を思い起しつつ、絵に仕掛けられたさまざまな仕組みを読み解いていく作業である。

絵巻は、あくまでもストーリーを伝えることを目的とするジャンルであり、絵からものごとの展開、それを包む雰囲気と情調を読み取ることが絵巻読解の基本だ。そのため、長谷雄と鬼との葛藤を追いながら、つねに心がけていたことは、絵巻の表現様式、表現原理への模索である。誤解を恐れずに比喩的に言えば、絵巻における絵の文法、絵の語彙なのだ。そのようなものははたして存在していたかどうか、それらを取り出すことがいったい可能かどうかは、いまのところ未知だと言わざるをえない。ただし、『長谷雄草紙』に見られる豊かな絵の表現は、この魅力的な課題にとりかかるために手掛かりとなるような例証をすでに提供してくれていると考えたい。今後、他の絵巻を読むうえで検証し、絵についての理解を深めるための一助とすることができればと願っている。

(『本の旅人』2月号、20-21頁)

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