楊暁捷(大学院修士)
ある土曜日の午後、私は一人で祇園女御塚の前に立った。ガイドブックを頼りにしてやっとこの場所に辿りついたのだった。まわりは緑に囲まれてひっそりとしていた。五輪石塔の前には澄んだ水を湛えたコップがきちんと置いてあり、その手前に一束の黄色い花は枯れかけていた。
日本に来てから早くも八ヶ月になった。その間、いろいろ由緒ある所を歩いた。日本人が歴史旧跡を大切にすることに一度ならず感服の念を抱かされた。もっとも、宮島の大小数倍の差もある祈願の杓子には「開運」「交通安全」と書かれて妙に滑稽だったし、石山寺では紫式部が写したお経、ひいては『源氏物語』を書いた時に使われた硯まで展示されて変な気分になるという経験もあった。それらの所に比べてここは素朴で静かなので、ずっと気にいったのである。
目の前の塚は数百年も前から人々に敬畏の念を抱かせたのだろう。『都名所図会』に「この地を耕せんとすれば、祟りありとぞ」とあった。話によると、明治三八年に塚の前の御堂を立てた奥村某はじめ数人さえも、その後まもなく病気やら戦争やらで命を失ったという。かよわい一人の女性の怨念を歴史の陰に感じたような気がした。
この祇園女御は一体どういう人だったろう。『今鏡』に「その白河殿(祇園女御)あさましき御宿世おはしける人なるべし」「かの院(白河)の内の御局はたりにおはしけるをはつかに御覧しつけさせ給ひて、三千の寵愛一人のみなりけり」とあり、『長恨歌』の文句まで描写に使われた。『中右記』『長秋記』等の日記類に照して歴史上の実在人物だと分るが、ただ白河院の寵姫の一人に過ぎなかった。そこで彼女は『平家物語』に登場した。物語のその話を作った人は祇園女御を以って清盛の血筋を高めようと考えたのだろう。しかし清盛がいたからこそ祇園女御が今日まで人々の記憶に残されたのだった。昔から無数の女御、更衣、皇后が名前さえ歴史の彼方に消えうせてしまったいまも、一人祇園女御だけはこの立派な塚をかまえている。
祇園女御はその後もっと歴史の真実から離れた自由な姿で活躍してきた。吉川英治の『新平家物語』に至ると、彼女は白河上皇の恩寵を蒙りながら悪僧と通じて下賜され、忠盛を悩ます種とまでなった。目前、女御塚の傍には「幸運の産」の御神籤が立てられている。祇園女御が清盛の生母だと信じるにせよ、彼女を子安神と何らかの関係をつけようとしたのはもっと突飛な発想だと言えよう。
ところでこの塚の中で眠っているのは果してあの祇園女御だったろうか。『栄華物語』をめくれば、皇太后妍子崩御の段に「祇園の東大谷と申て広き野に葬り奉る」とあり、『大日本地名辞書』に「蓋三条天皇中宮妍子の御陵とぞ」とある。どれが信じるべきものだろうか。しかしそれよりも、歴史の実在と別の次元に文学の魅力が潜んでいることを改めて感じるような気がした。
(京都大学国文学会会報、昭和58年10月、31号)
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