秋が訪れた。京都の街中を歩き回り、学生時代の思い出を辿り、蘇らせる。京都の記憶は、山の輪郭、河の姿にある。わたしには、山は如意ヶ岳、河は鴨川なのだ。
鴨川を見るまでには、都会にある河というものには、一つの認識を持っていた。いわば水の底には汚泥が溜まり、水の上にはコンクリートの橋が横たわる。だが、鴨川はそのような認識をかなり変えてしまった。水はたしかに広くて速い。しかしそれを受け止めたのは、しっかりした石造りの河底であり、しかもそれが綺麗な階段を成していて、見ようによっては巨大な音譜を呈している。それ自体が一つの途轍もない現代都市建築の一部だ。歴史上での川水氾濫の記録など、知識として知っていた。ならばなおさらのことで、目の前の石畳の河の姿は、かつて荒れ狂う水の流れを宥めた人間の努力の結晶として映った。
あの鴨長明もかつての鴨川を目の当たりにしていた一人だった。彼が書き残した「方丈記」を読み解く新しい連載が、先週から「京都新聞」日曜版に展開された。「行く河の」の名文を俎上に載せて、筆者は「圧倒的にチャーミング」と意表を衝いた解説をした。一読して視界が一新した思いだった。無常の代表格である「行く河」は、どんなものでも凋落する、変わりゆくものを直視するシンボルだと繰り返し議論されてきた。だが、一方では、世の中の摂理を見抜いたあとの、達観で清澄した鴨長明の精神の世界にわれわれは目を向けなさすぎたのではなかろうか。
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