2011年10月29日土曜日

京都・時代祭

年中行事、年に一度のみの行事が多い。時は秋、場所は京都、そのような実感はなおさらのものだ。その中で、先週の週末に「時代祭」を観た。京都の三大祭と謳われ、かつ自分にとっては、時代という言葉は中国語に言う「現代」ではなくて、過ぎ去った「歴史物」を意味するものだと、たしかこの行事のおかげで気づいたものだといまだに覚えていながらも、実際に街角に出て行列を見物したのは、なぜかこれまでに一度もなかった。

時代祭の眼目は、どうやらもっぱら服装の艶を競う仮装行列のみにあった。西洋風のバンドやら出し物を見せるパフォーマンスはごく稀にしか登場せず、乗り物は手押しで、情報を伝える旗は文字が見れないほど小さくて、馬の数だって期待したよりはるかに少なかった。行列の大きな工夫の一つは、時代展開の順番に沿うものではなく、時間を逆行して古い時代の行列が一番後ろにやってくるというものだった。時のトンネルを潜って時間の向こうへと旅行するかのようなもので、たしかに想像が刺激された。一方ではその結果、京都が自慢にする時代ではなくて、京都が国の中心から離れた時代のものが数・量ともに多く、より深い印象を与える結果となった。そして明治あるいは江戸という時代はその全体がテーマではなくて、その間に京都と関わりのあるものだけが表現の対象となった。それを眺めていて、思わずはっと気づいたことがあった。江戸時代以降、京都はあくまでも「都」という名前の地方都市だった。その意味では、地方色豊か、地方に密着する、といったような自慢になる言葉は、こと京都になれば、どこかノスタルジアを誘う、淡い失落や儚さ、それに責任の反対側に位置する気楽さを持ち合わせるものとなった。

111030今年は天気があくまでも不安定で、祭は一日延長して、それでも行列の後半は雨に降られ、多くの観光客がそそくさと座を立った。色鮮やかな写真を祭の記憶として一枚ここに置く。祭が済んでからの翌日、友人は、御所の出発地は楽しくて、時代の服装を纏った人々と会話することもできるのだよと教えてくれた。良いシャッターチャンスを逃して、いささか残念だった。

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