中国の古典に見られる日本の美術工芸、とりわけ絵画についての記録は、言葉通りに数えきれないほどあった。一例として、つぎの数行を読んで見よう。
日本国、古倭奴国也、自以近日所出、故改之。有画不知姓名、伝写其国風物山水小景、設色甚重、多用金碧。考其真未必有此、第欲彩絵粲然、以取観美也。然因以見殊方異域人物風俗、又蛮陬夷貊,非礼義之地、而能留意絵事、亦可尚也。抑又見華夏之文明、有以漸被、豈復較其工拙耶?
現代日本語に訳せば、およそつぎの通りだ。
日本国、昔は倭奴国、日が昇るのに近いゆえにこの名に改めた。絵師不明の絵が本朝に伝わり、その国の風物山水などの景色を描いたとされる。その色使いはきわめて誇張的だ。金箔などを多用して、本当の景色を描いているはずはなく、ただ鮮やかな色を狙い、それが美しいと考えただけだ。しかしながら、そこから異国の人物風俗を見ることができよう。開化されず、礼儀も伝わらない土地なのに、絵のことを大切にしていることは、讃えるべきだ。これをもって中華の文明が東に伝わることを知り、その絵の出来栄え云々など見過ごしてもよかろう。
文章の後半の、日本という存在についての議論は、一笑に付すべきだろう。異なる文化への無知、そこからくる軽視は、自我中心の価値観に縛られたことの表現にほかならない。むしろそのような偏屈な認識に立脚していても、絵の出来栄えに驚嘆を感じざるをえなかったことにもっと注目してよかろう。さらに言えば、同じ山水画をテーマにしていても、日本の絵師が中国のスタイルや技法とまったく異なる境地を開いたことをここに確認できたと言えよう。上記の段落に続いて、約同じ字数を用いて渡宋した僧侶との交流、とりわけかれらがいまだに隷書を用いていることなどを記し、さらに「海山風景図」「風俗図(二帳)」という三つの所蔵屏風の名を書き留めた。
この記録は、北宋に作成された宮廷所蔵の絵画6396点、絵師231人を記録した『宣和画譜』(卷十二)による。同書が成立したのは、宣和庚子(1120年)、あの『源氏物語絵巻』の成立よりさらに数十年前のことだった。
『宣和画譜』(宋・逸名)
2009年7月25日土曜日
「彩絵粲然」の日本屏風
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