2009年7月11日土曜日

戦場の竹崎季長

『蒙古襲来絵詞』の詞書は、妙な味わいを持つ。

一つの絵巻としてきわめて異色なこの作品は、そもそも個人的な記録との立場を貫き、制作者竹崎季長という一人の下級武士の武勇談をもって構成され、それを記録することだけを目的とする。前後して登場したさまざまな人間も、かれを中心とし、戦場におけるかれ自身の伝説的な行動の信憑性を保障するために語られたものばかりだった。

その中につぎのエピソードがあった。弘安の役(1281年)の最中、後世には神風と信じられた7月30日の夜の台風が起こった後の出来事である。大勢にやってきた蒙古軍に対して、竹崎たちはおよそ防戦ではなく、敗退する敵を追跡し、すこしでも自分の手にかかる戦果を増やしたいという合戦の流れとなった。そこに、一人の武士から「割れ残」った船に「しかるべき物ども」が乗船したとの情報をもたらされた。これを聞いた季長はとっさにつぎの判断を述べた。

「おほせのごとくはらひのけ候は、歩兵とおぼえ候。ふねにのせ候はよきものにてぞ候らん。
これを一人もうちとゞめたくこそ候へ(船から大勢追い払われたのは、下級兵士の歩兵であり、その代わりに船に乗ったのは身分の高い将領たちに違いない。一人でも逃したくない。)」

これに続いて、自分の配下の船が到着しない季長は、なりふり構わずに他人の戦船に乗り、連れの侍どころか、自分の兜さえ持たないまま敵船に向かった。絵巻の絵は、かれの乗船、追跡、そして敵船上での死闘の様子を細かく描く。絵に見る敵船の乗員たちは、たしかに戦場の一線を走る武士とは異なる服装になるが、そのかれらがはたして季長の言う「良き者」だったかどうか、その詳細は、現在伝わった部分では確かめ出来ない。

そこで、季長の推論がはたして正しかったのだろうか。そもそも合戦の勝敗がほぼ決まったあととは言え、下級兵士を残して、将領だけが船に乗って逃げてしまうという行動は、簡単に起こるものだろうか。手掛かりを求めて中国のほうの正史に目を移すが、なんと明白に記されているものだった。『元史』列伝九十五につぎのような一行があった。

「文虎等諸将各自択堅好船乘之、捨士卒十余万於山下。(文虎らの諸軍将は、それぞれ頑丈な船を選んでそれに乘り、兵士十余万人を島に見捨ててしまった)。」(至元十八年八月五日)

蒙古襲来の歴史研究は、この合戦の背景、とりわけ元軍失敗の要因となる民族の対立、軍隊構成の欠陥、戦術の未熟など、多くのことを報告している。そのような歴史的な要素もさることながら、戦場を走り回る一人の練熟な兵士たる竹崎季長の知恵と判断は、われわれを深く感嘆させるものがあった。

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