週末には、新宿の映画館に入り、先学期学生から教わった話題の映画を見た。あのクラスとの関わりは、白楽天と楊貴妃。その目で見れば、じつに妙な映画だと言わざるを得ない。名高い出浴する貴姫の姿はついに登場せず、代わりにその美貌を披露するには、度肝を抜いたブランコ乗りで、まるでサーカスさながらの見せ場になった、李白もお目見えにはなったが、俗人っぽい顔ばかり塗り固められている、などなど、ツッコミ所満載だった。ただ、そもそも妖精の猫が主人公なので、頭を空っぽにして、とにかくスクリーンに映し出された幻を眺めるこそ正しい鑑賞だと言えよう。人物も動きも色合いも、まるごと神仙境を訴えようとしている。
ストーリのかなめに「尸解」を据え付けたことには少なからずに驚いた。思えば、修士論文を書いたころーーあの時代、博士論文というものは勉学の内容に存在せず、修論が大きな到達だったーー四人いる同級生の一人が取り上げテーマはまさにこれだった。そこで初めてこの道教の用語を知ったのだが、この言葉の言おうとしたもの、目指そうとしたところなど、なかなか理解ができなかった。一方では、近年になって、言葉の神秘さも大きく貢献しているだろうが、「尸解」をテーマにした小説などかなり増えた。言葉通りに理解するなら、死んだ人を蘇えらせることも一つ分枝だろうけど、言葉の重きは、やはり体(尸)を分解することにあったはずだ。しかしながら、映画の中では、これがむしろ逆の発想で捉えられ、しかもいかにも仙人の対極にあるような発想での落ちが用意されたものだった。
映画のタイトルは、中国語でも英語訳でも「妖猫」としている。日本語版のみ「空海」となった。異国の貴姫よりも、自国の空海が身近だということだろうか。いずれにしても、この映画のおかげで空海の顔にさらに異色のものが付け加えられたことになる。無心に眺めていれば、捉えようのない猫よりは、画面いっぱいに活躍する若い僧侶の顔は、瑞々しくて親しみやすい。
空海 -KU-KAI- 美しき王妃の謎
2018年4月28日土曜日
空海・猫
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