今度も引き続き鼠の話を書いてみよう。日本の絵巻の作品、これまでも数回触れてきた「弥兵衛鼠」に登場した幸運をもたらす白い鼠のことである。(「幸運の白い鼠」2008年1月1日、「鼠の祝言」 2008年1月6日)
中世の後期に作成されていた多数の「異類物」と同じく、作品の中の鼠は、体つきも振る舞いも人間の姿として描かれた。かれらは人間の衣装を身に纏い、宴会など人間世界の晴れ晴れとした場をその通りに実行した。一方では、多くの「異類物」作品と違って、ここでは、弥兵衛を始めとする鼠たちはときどき鼠の姿に意識的に戻る。目的や状況に合わせて、自由に人間と鼠という二つの世界を行き来するということを、まるで人間たちに自分の超能力を見せびらかすかのように、ほしいままにした。
鼠から人間への変身、そして再び鼠への逆変身のことを、絵巻は一つのハイライトとして捉え、とりわけそのプロセスをクローズアップして、大きく読者を楽しませようとした。文字テキストによって語られたところを読めば、例えばつぎのような描写が目を引く。弥兵衛が妻のために雁の肉を捕ろうとしたところでは、「烏帽子、上下脱ぎ捨て」た上で外へ出かけたものであり、弥兵衛が一家のものを全員連れて帰郷の恩人にお礼を届けた場面では、「装束は人目に立ちなんとて、ありしままの姿にて出で給ふ」と、服を脱ぎ捨てた理由まで添えてくれた。一方では、常盤の国で弥兵衛の望郷の念を慰めようとした地元の鼠たちが饗宴を開こうとしたおりには、「烏帽子、上下持ちて来たり、着せければ」と、今度は鼠の姿から人間への変身が興味津々に語られた。
興味深いことに、鼠への逆変身の瞬間の一つが絵の描写にまで登場した。弥兵衛の妻が行方不明になった主人の安否を心配して、占いに縋る場面である。まずは、これに関する詞書を読んでみよう。
「さすがによそ目の慎しければとて、いろいろの衣文重ね、褄を揃へし十二単を脱ぎ捨てて、眉もかもじも取りのけ、ありしままの姿にて(略)」
逆変身の理由は、前出の例と同じである。ただし、女性が主人公だったため、脱ぎ捨てたのは、烏帽子ではなく、正装の十二単、それも眉、かもじ(鬘)だった。この状況を描いた絵は、まさに傑作だ。
いうまでもなく、ここに描かれたものをもって、中世の服装習慣、衣裳の構成、着用の仕組み、ひいては鬘着用の実態といったもっともらしい内容を推測しようと思えば、あまりにも的外れな苦労になることだろう。現代の読者のみならず、中世の読者だって、このような画面からは、いかにもコミックっぽくで、申し分なく可愛らしいとだけ強く感じていたに違いない。
このような場面を目の前にして、なぜかハリウッドの映画に繰り返し援用される表現パターンの一つを思い出す。たしかあのランボー映画の一作目あたりから作り出されたものだと思うが、主人公が最後のクライマックスの戦場に赴く直前には、きまってその変身のプロセスが描かれる。それは一つひとつの武器や服装のクローズアップの連続によって構成される。ごく限られた空間に描きこまれた白鼠と、彼女が脱ぎ捨てた衣裳の数々を眺めて、映画のリズムとビジュアル・インパクトを感じてやまないのは、はたして私ひとりだけだろうか。
2008年6月15日日曜日
鼠への逆変身
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