いまどき、あまり郵便局に行くことがない。そのため、たまたま送られてくる小包を受け取るために立ち寄ったら、自然にカウンターの上をじっくり眺め、今年の干支の切手がいまだ売り残っているのに気づいた。使う道がないだろうと分かっていながらも、一枚買った。しかも「綺麗だな」と言い聞かせたら、郵便局の人が切手のまわりの飾りまで丁寧に切り取って添えてくれた。ここに載せよう。
カナダ郵政省は、年に一枚の干支の切手を出し続けて、今年で十二年目になり、干支の始まりの子の年をもってシリーズを締めくくった。今年の切手は、二枚組になっていて、手に入れたのは、花嫁のほうで、国内郵便用の52セントのものだ。書き添えられた文字は、「カナダ」「52」に加えて、英語、フランス語、中国語で「鼠年」と記して、いかにもカナダらしい。さらに切手の周りの飾りには「鼠年銭粘」との四つの文字が見られる。「鼠の年になって、銭が手にくっつけて懐に入ってくる」といったような意味合いだろうか。目出度い言葉の語呂合わせだと分かるが、わたしの持っている知識にはない表現で、なぜか新鮮だ。
一枚の絵として、見ごたえがあって申し分がない。一言で言えば、プロ的な幼稚さと洗練された装飾性、といったところだろうか。両方の目がともに見える顔立ち、花嫁にふさわしい髪飾り、天蓋傘の柄を握る手元など、切り紙など中国の伝統的な工芸のスタイルを思わせて興味が付かない。傘と髪飾りは、いわば花嫁ということへの象徴的な表現だが、花嫁自身が傘を手にするはずもないといったような詮索は、無用だと感じさせるだけの緊張感が画面から伝わってくる。
絵を眺めていて、やはりその構想、そしてそれを支える人々の常識に気づかされる。たとえば擬人表現の仕方だ。頭が鼠であって、尻尾を大きく突き出した以外、手足、体つき、そして足を踏み出す仕種など、すべて人間のそのものである。鼠が人間のように動き回るという幻想を伝えるためには、一番自然で有効的な表現の工夫だろう。一方では、伝統を用いるといっても、すべて昔のものを再現するわけにはいかない。その端的なものは、古風の靴を履いた両足だろう。中国の古典の絵画に描かれた女性の足をそのまま描いたら、たとえ鼠であろうと、今日の人々の目には醜いものだとしか映らないに違いない。
ちなみに、この切手のシリーズの中では、ここまで擬人化の表現を施し、服を着せたのは、この鼠の一枚のみらしい。鼠の結婚と花婿花嫁を持ち出したところに、鼠の伝説にまつわる重層な伝統を窺わせた。それがたとえば竜や蛇よりも濃いものがあったとは、思えばかなり意外なものだった。
中国絵画の伝統にある鼠の婚礼について、これまでも一度触れたことを付記しよう(「鼠の婚礼」2008年2月5日)。
2008年6月8日日曜日
カナダの「鼠年」切手
Labels: 内と外・過去と現在
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿