2008年11月29日土曜日

獅子の博奕

ハーバードの学会から戻ってきて早くも一週間が経った。学期末にかけての日常の仕事や生活に没頭して、慌しく感じる毎日だが、それでもあれこれの思い出が不思議なほどに記憶に入ってくる。その中の一つを記しておこう。

予定していた発表の日の朝、やや早くロビーに下りてきたら、何人かの先生方はすでにソファーに腰掛けていた。ゆったりしたコーヒーテーブルの上には、宿泊客のために寛ぎを図ろうとバックギャモン一式が置かれてある。思わず手を出して駒をいじり、素朴な質問が口から出たら、一人の教授がさっそく簡潔にして要領のよい説明を始め、実演をしてくれた。一座は、いつの間にかバックギャモン講習会のようなものとなった。その日の発表のテーマは、ハーバード本の白鼠弥兵衛、しかもその底本の最後を飾る画面は、まさに鼠たちの双六。ボストンの地で、双六ならぬバックギャモンを手にした、なんとも贅沢な研究発表への助走だった。

さて、動物と盤上ゲーム、日本のものなら『鳥獣人物戯画」はじめ、見慣れたものとさえ言える。そこで、西洋のものを一つあげてみよう。古代エジプトの第20王朝(Twentieth Dynasty)のものだとされる、紀元前11世紀の作品だ。これを所蔵しているイギリス大英博物館の説明は、パピルス(紙)古文書に書かれた諷刺画とある。三千年も前のものとしては、驚くぐらいの保存状態だと言えようが、限られた情報からは、これが双六でもバックギャモンでもないと分かるにしても、はたして現在のチェスなのか、それを実証するような手がかりは十分でない。そもそも獅子の左手(爪)にはたしてなにかを握っているのやら、まさか筒ではないだろうが、それがゲームの一部なのかどうかさえ、いまのところ知りようがない。

いうまでもなく、三千年前だから、動物たちがかつて文明を持っていた、思考の象徴である盤上のゲームを楽しめていた、あいるは荒野を走り回るのではなく、室内の椅子に腰を掛けていたとは、絵を教えていない。動物たちの行動は、あくまでも人間世界の様子を表現して、なんらかの意味深いメッセージを送ろうとしていた。それの解明は、いま手に負えないが、少なくともハーバード本に見られる弥兵衛の子孫が楽しんでいた双六とはまったく異質なものだったことだけは明らかだ。弥兵衛の場合、それは裕福な生活の記号であり、言ってみれば、絵画的な、あまりにも絵画的な表現だった。読者と絵師との共通理解、それが基づく社会の常識は、数千年の時間、地球裏表の空間を超えて雄大に展開したことへの、端的な実例だと言えよう。

同じエジプトの古文書は、文字がないが、絵が連続して豊かに繰り広げられ、まさに絵巻だ。そこにはなんと鼠も、そして猫も生き生きと登場している。じっくりと眺めてみたいものだ。

The British Museum: Scene from a satirical papyrus (EA 10016)

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