連休が明けた。前半の一日、遅咲きの桜を追い求めて比叡山に登った。もともといまごろの交通手段を持ってみれば、登るという実感など平均した訪問者にはすでに味わえない。違うバスやケーブルの経路や発着時間などを比較することに神経を使ったぐらいだった。山頂に上がってみれば、桜は見事に満開していて、一年のうちに二回目の開花を賞でた思いをした。
前回比叡山を訪ねたのはいつだったのだろうか。あったにしても、きっと二十数年以上前のことで、確かな記憶はもうない。その代わり、手元の読書のいくつかは、どれも比叡山伝説、延暦寺の僧侶たちの仕事や日常に関わるもので、京都の住み人から言う「山上」の世界を、親近感のような見上げる思いが伴う。しかしながら、実際に延暦寺の中に入ってみれば、少なからぬの失望を感じてしまった。境内に立て巡らしたお寺の由来や縁起の画像と文字説明は、あまりにも無造作でやすっぽい。国宝になっている根本中堂には、カメラを持ち込ませないが、その回廊に飾ったのは小学生の書道作品ばかりで、どこかの銀行か郵便局の待合スペースしか連想させない。国宝館と名乗るところの最上階には、現代の書画といって、前衛の書や古典への志向を微塵もない壁画がフロアいっぱいに使っている。大きな釣鐘は、だれでも自由に衝き放題になっているが、力任せの男性二人の衝き方には衝き棒がすでに力負けしたような感じで、三人目の男性は明らかに手加減をかけたことだけは、妙に印象が残った。天下の延暦寺の今は、どこまでもちぐはぐな風景だった。
下山には坂本に降りて行くケーブルを使った。十分程度の乗車には、延暦寺関連の紹介がほとんどなく、無縁仏についての説明になって突然力が入った。比叡山の焼き討ちは、もうすでに半世紀近くも前だったのに、それから以来の年月の中で、寺の弱体化が有効に進められてきたからだろうか、どうやら比叡山は、いまや人々の記憶の中にだけ存在しているようだ。
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