小さなプロジェクトに向かい合い、黄表紙「敵討義女英」を読み返した。恋に落ちた小春は、父を救い、恋人の願いを叶えてあげようと、寝るふりをして自分の首を静かに差し出すという展開には、思いを絶するものがあった。
ただ残念ながら、この大事なハイライトは、なにもこの作品のオリジナルではない。それどころか、物語の詳細はほとんど二番煎じで、しかもその元といえば、あの文覚の出家談だった(『源平盛衰記』巻十九)。絶世の美女袈裟御前は、母を救い、夫を死ぬ運命から逃させるために、夫の格好をして自分の死を選んだ。間違って意中の人を殺したと気づいた盛遠、のちの文覚は、袈裟御前の夫に自分の命を差し出そうとするところまで同じで、そして物語は、一家上下の人々ともども出家してこの世を離れるとの結末だった。黄表紙の物語において設定が変わったは、小春が救ったのは夫ではなく父、間違いを犯した岩次郎は出家ではなく、出世、団欒し、あくまでもこの世の人生を謳歌したものだった。さらに小春には兄の死の真実が教わらなかったなどの慎重な調整が施され、父と恋人の両方を救おうとする小春の純情がいっそう際立った。さらにこの運命を受け入れた岩次郎を説得するためには、小春の父が喝破したように、小春が最高の恋模様に織り出したのだったという論理だった。一篇の物語として、時代にそった意味深い展開があったと言わなければならない。
かつてとある公開講座でこれを取り出したところ、朗読動画にこの作品を選んだ理由とはなにかと聞かれた。あれこれと考えられようが、いくつの作品を読み較べてこれに落ち着いたのは、やはり中世の軍記ものとの繋がりに惹かれたと、いま思えばもっとはっきりと答えるべきだった。
2019年11月2日土曜日
袈裟御前から小春へ
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