中世の人々は、妖怪のある生き方をしていたとよく言われる。そのような様子を伝える「徒然草」230段は、味わい深い。五条内裏において、公卿たちが碁を差したところ、御簾の外で見物する人がいるらしいと、声をかけたら狐だと騒ぎ、その狐がさっと逃げたとの一幕である。ことの経緯の結論とは、「未練の狐、ばけ損じけるにこそ」だった。
この記述を読み返して、その表現になぜかひっかかる。「化け損じる」、あるいは今日の表現に直して「化け損ねる」とは、はたしてどのような状況だろうか。化けることに失敗した、化けようとしてけっきょく出来なかった、ということは、結果として分かる。一方では、その失敗とは、化ける途中に起こったものであり、化けるプロセスが始まったが、成就しなかったというニュアンスを感じる。目の前の一例について言えば、碁という人間たちの高度な文化に関心を持った狐は、それがその本性から離れたということを意味するにほかならない。これを認めるとなれば、化けはじめた以上、狐の姿形にもすでになんらかの変化があったのだろう。化けることが失敗したからと言って、即そのまま元の形になれるはずはなく、そうなるまでには、変化したのと同程度に苦労が必要とされよう。
以上のような思いはどうやらあまり共鳴が得られない。写真は、「つれづれ草絵抄」(苗村丈伯、1691年)にみるこの段の絵注釈である。化け損じた狐とは、なんの変哲もないただの逃げ惑う狐なのだ。
2020年7月25日土曜日
化け損じる
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