2008年7月20日日曜日

美女と野獣

「NHKラジオセミナー・古典講読」は、『藤袋の草子』を取り上げた。ストーリーの内容を紹介して、佐竹昭広先生は「美女と野獣型の物語」とさらりと語られた。聞きなおして、思わずあれこれと考えを巡らした。

ストーリーの内容は、猿が人間の女性を無理やりに奪い取り、自分の嫁にするというものである。その間柄は、言葉通りに有無を言わせぬ略奪婚であり、その間に大群の猿たちによって祝いの酒宴など嫁入りの行事が派手やかに繰り広げられる。ストーリーの結末は、一転して人間の立場に立ち戻り、藤袋に閉じ込められた女性を救い出し、しかも同じところに猟犬を隠し、それが猿を噛み散らすという、痛快な猿退治のハッピーエンドになった。

考えてみれば、話の主人公は、たしかに美女と野獣、その通りのものだ。しかしながら、ディズニーの名画や劇団四季の看板ステージともなった、あまりにも有名なあの西洋の童話の枠組みと重なっても、これはまったく別個のものだ。この東洋と西洋とのギャップとは、はたしてどこに由来するのだろうか。ここにあえて西洋童話の名前を持ち出したのは、佐竹先生の優雅な洒落だった。ならば、洒落となる所以の一番の理由、言い換えれば、西洋童話の最大の差は、はたしてどこにあったのだろうか。

いうまでもなく、あの「美女と野獣/La Belle et la Bête」との違いは、数多くある。人間と動物とのラブストーリか、それとも対立する両者の戦いか、一匹の超人的な野獣か、はたまたただ群集することにより人間に迷惑をかけてしまう獣か、話の展開はあまりにも対照的だ。しかしながら、このようなことを挙げ始めると、いかにも理屈っぽくなって、大事なものを見失う。

あるいは、一番大きな違いは、美女が最初からいなかったということではなかろうか。もちろんストーリーの中心にいるのは、一人の娘だ。しかも美人だとの評判も一通り受けている。だが、いくら目を凝らしてこの美女の姿を見つけ出そうと思っても、なぜか徒労に終わる。中心になるはずの女性は、まるでその存在が掴めなくて、一人の人間としての生身の温もりが伝わってこない。ヒーローインのはずの彼女は、不運を嘆く年寄りの夫婦、ひいては嫁入りを喜びあう猿たちと比較しても影が薄い。まったく同じことは、絵の表現にも明らかに現われている。生き生きとした猿たちに囲まれて、画面の中心となる美女は、場違いの十二単といった、王朝貴婦人の格好しか見せてくれなかった。まるで描写を拒もうとする絵師が、どこからか切り紙してもってきて、ここに無造作に貼りつけたような感じだった。

ここに読み出したのは、当時の人々の持つ美女への一つの心像だろうか。それとも読者の目に映し出された民衆的なエネルギーだったのだろうか。

『藤袋の草子』は、サントリー美術館に所蔵されている。しかも同美術館の公式サイトは、その全容を公開している。画像サイズはきわめて小さいが、それでも白黒写真で収録された『御伽草子絵巻』(角川書店、1982年)よりやや見やすいことを付け加えておこう。

サントリー美術館コレクションデータベース

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