2015年3月29日日曜日

太鼓と言葉

学生たちが主催する楽しい行事が行われた。週末の時間を利用して、和太鼓をステージにあげて、講義を聞くスタイルで鑑賞するというものだった。かつて学生だった若者が短い日本での生活から戻ってきて、しっかりしたグループを立ち上げ、熱心に取り組んだことがありありと分かるような完成度の高いパフォーマンスに、百人近く集まった人々がすっかり満足した。

20150328太鼓実演の合間に、丁寧な説明まで織り交ぜた。その中に、「口唱和」という用語が持ちだされた。しかもそれがどういう言葉で、どうやって表現されたかということを具体的に解説された。いうまでもなく、口唱和という言葉自体、実際に太鼓を稽古する人には非常に身近なもので、一歩そのような集まりから外に出たらほとんど使われないようなものなのだ。そもそも太鼓の叩き方と言葉とは相性が良くない。叩き方には、打ち方の強弱、太鼓の真ん中、周辺、胴体といった叩く部分、それに叩かない休止という限られた種類しかなく、言葉に直してもほんの「ズードーコン」などの数語しかならない。それによって織り出されるリズムは、それこそ音楽に属しても、言葉の領域とは交わらないものだ。

実演のあと、質問応答の時間が設けられ、そこでさっそく飛び出されたのは、レクリエーションだった。どうやら観客の多くは、舞台上の演出というよりも、自分でも参加できる、健康によい娯楽という視線で捉えていた。言ってみれば、ヨガやダンスに同列させるところもあるのだろう。さらにその向こうには、たとえば「ゲーセン」で時々見かける、モニターを見つめながら一人で集中して叩き込む様子が重なる。まさに現代の生活に入り込んだ和太鼓なのだ。ただしそこには巧みに制作された動画があっても、言葉が介在する余地はまったく残されていない。

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