2015年1月24日土曜日

タイトルにたどり着くまで

学生たちとともに一冊の小さな電子ブックを編集している。いくつかの段階を経て、目下の作業は、タイトルを決めることである。いうまでもなく大切なもので、作品の受け止め方を大きく左右する。学生たちの意見も聞き入れながら、あれこれと試しながらも、思わず小説出版の実績まである同僚に助言を求めた。

聞かれた同僚は、こういうことは得意分野で、大いに協力しようと快い返事をしてくれた。そして、約束通りに一日かけてじっくり考えたすえ、はっきりした返事が送られてきた。提案されてきたタイトルには「Redux」という言葉が入っている。自分ではとても思いつかない、個人の語彙にはまったく登録されていないものである。それどころか、英和辞典を調べてもぴったりした解説が見つからず、あれこれと参考書を読み比べて、ようやくラテン語に由来するもので、文学的なタイトルに使われる表現だと分かった。そこで、辞書ではなく、仮想したタイトルをまるごとサーチにかけたら、似たような書名や論文名は複数出てきて、まさに文脈にぴったりふさわしいものだ。

素晴らしいタイトルの基準とは、簡単、明瞭、キャッチにある。いうまでもないことだ。それにたどり着くには、ユニークな、特定の文脈のみに使われる言葉を選んだり、あるいはきわめて分かりやすい言葉を取り出して、普段はされていない組み合わせを慎重に作り出したりすることである。こう記していれば、まったく新味のない理想論に聞こえてしまうが、実際にこれを可能にするには、やはり日常の読書だろう。今学期の担当クラスの一つには、少人数の学生たちを対象にする作文があって、週一回のブログを書かせている。それこそタイトル選びは一つの基礎作業だ。初心者の学生たちには、繰り返しの実践を通じてこれを体感してもらおうと心がけている。

2015年1月17日土曜日

絵を描いてもらえば

テレビの画面に映り出すいかにも日本らしい風景には、あの街頭インタビューがある。人口密度が高いからだろうか、どこのテレビ局もことあるごとに、あるいは何もなくても街角にビデオカメラを繰り出す。そして、そこにはいつでも親しそうに質問に応える熱心な歩行者がいて、ニコニコしてカメラに向かって語り出す。なんとも平和なものだ。

20150117何気なくテレビをつけてみれば、今度は街角でカラフルなクレヨンを差し出してその場で絵を描かせている(「サラメシ」#030)。テーマはその日の昼食。描いてもらった絵から、レストランの定食を前提に当ててみるという、きわめて他愛ないものである。興味深いのは、カメラの前で足を止めた面々の弁だ。白紙とクレヨンを前にして、応じるとしながらも、誰でもきまって絵は「得意でない」、「苦手だ」、「(学校のころ)美術は一だった」(はたして五段階評価なのか、はたまた百点採点なのか)と、とにかく恐縮しきりだった。考えようによれば、絵というものの特質の一面をじつによく表している。絵というものは、単純なもので、無理やり書かせてみれば、だれでもなんとか紙に残せる。かといって、なんらかの訓練、繰り返した実践、そして思い込みや愛着がなければ、たいていの人はほとんど思う通りのものを描けない。一方では、絵の出来栄えは上手にせよ下手にせよ、読み解く人が真面目に向かってしまえば、描かれた内容はなんとなく伝わる。

ここのところ、暇を見つけて読み返しているのは、説話に出る昔の絵師をめぐるあれこれの伝説などだ。昔の人々もまったく同じく絵や絵を描く才能を受け止め、物事を思う通りに描ける絵師たちに驚異の視線を送っていた、そのような絵師たちについての評判と言えば、すぐに「手早筆軽」(とにかく筆が早い、さっさと描き上げてしまう)(『新猿楽記』)、「生きたるもの」(時には非現実的に生きるものと化けてしまう)(『古今著聞集』)と驚いてしまう。絵を評価するには、文化や伝統などいくつもの重層があるはずなのだが、そこまで行くまでには、まずは実物に似ているかどうによって、最初の基準が用意されているのだ。

2015年1月10日土曜日

雪の京都

20150110年末年始のあいさつに、元日京都の写真が飛び込んできた。一面の覆われた雪だった。新聞記事によると、58年ぶりだとか。京都の冬には、積雪は数回ぐらい確実に起こるが、それがお正月に重なることはやはり珍しい。初詣などには大いに影響したのではないかと想像している。

学生時代の寮生活から始まり、その後の研究のための長期、短期の滞在を加えて、月単位で数えれば京都での生活はちょうど10年になる。長いようで短い、短いようで長い。多くの知人、友人は京都で生涯の職場や住処、あるいは頻繁に滞在する拠点を得ている。一方では、たいていの人々は「修学旅行」の記憶を頼りに京都との繋がりを求める。自分はここの前者にも後者にも属しない。ただ、それでも京都のことを「第二のふるさと」だと名乗って憚らない。「そうだ京都、行こう」のシリーズも、いまや大分アクセスしやすいから、クラスで機会あるごとに学生たちに見せている。そのような学生たちの中では、今年も卒業生のグループの一つからは、春に京都を訪れることにしているとの報告を聞いた。

京都というテーマで、去年の初夏には一つの行事に招かれ、その時の報告が活字になった。個人的な思い出を思いっきり織り交ぜたので、リンクをここに添える。

古都の時空」(「論究日本文學」第101号

2015年1月3日土曜日

ビッグホーン

未の歳になりました。明けましておめでとうございます。

今ごろ、日本や中国では、羊の絵を載せたカードや飾りものなど、どれだけの数のものがとり交わされ、掲げられているのだろうか。一方では、遠く離れていて、日常の生活に干支がまったく入っていないカナダでも、国レベルの公式なところに、これにかかわるアイテムが披露され、ささやかな話題になっている。それはカナダ造幣局が秋の間から正式に製造し、公開した羊をテーマにするコインである。それも一気に似たデザインを五種類もラインアップされてい20150103る。それぞれ5ドルか、10ドル、15ドルの額面の価値を持ち、金、銀の材料を用いて上品に仕上げられ、70ドルか100ドルなどの金額で販売されている。最初から東洋的なテーマであるが、それを伝えるには、とにかく大きな「羊」という文字を取り入れている。あとは、画面いっぱいを占めているのは、伝統的なイメージの羊とはほど遠い「ビッグホーン」と呼ばれる山羊である。古代エジプトの太陽神アモンが頭にしている角から名を得た渦巻き状のアモン角が特徴で、立派な顔立ちだが、やはり未の年を暮らしている人々の目からしてはなんとなく異様なものなのだ。説明を読んでいれば、ここアルバータ州のロッキー山脈で生息しているとはっきりと書いてある。その通りだ。たしかに観光で山に入ったら、何回となく目にしている。ここにカナダと東洋との文化的な交流をしっかりと訴えているものだと、はじめて気付かされた。

日常生活にないものだけに、公式の告知文章では関連のことを分かりやすく説明している。羊という文字の意味、未の年に当たる最近九回ほどの実際の年、太陽暦と農暦との区別、そしてまるで運命判断のような語り口での羊の徳まで陳ねた。ただし、干支を表記するのに羊ではなく「未」をいまだ用いているという日本の現在などは完全に視野から外れたことは、ちょっぴりカナダらしくて微笑ましい。

カナダ造幣局の告知