2011年5月7日土曜日

目が合う

今週に入って、職場の日常的な仕事が一段落して、ようやく自分の時間を持てた。しばらくは「清水寺縁起」下巻第五段をじっくりと眺めることにする。例の謡曲「盛久」の霊験談だ。e国宝のおかげで、絵巻の全容だけではなく、思うように画面を拡大したりすることもスムーズに出来て、一枚の絵をどこまでもズームインしてとことん見つめることが可能だ。

110507気づいたことの一つには、「目が合う」があげられる。これ自体すこぶる日本語的な表現だが、図説しようとすれば、いまの画面が最高の実例になるに違いない。さまざまな形で目と目が合った。視線が交差する、視線を投げかける、視線を無視する。じつに豊かで、見ごたえがある。二紙を用いた長い一段の絵の中には、あわせて十二人の人と二頭の馬が描きこまれる。そこで左へと画面を披いていけば、まず目に飛び込んでくるのは、馬とそれを制御しようとする人間との緊張に満ちた見つめ合いだ。このささやかで騒がしい一瞬には、続きの四人の人間と一頭の馬が一斉に見つめ、いわばかれらの視線は人と馬との睨み合いに集合する。さらに画面が進み、武士の処刑という出来事において、当事者の三人を中心に残りの人間がこれを囲む。かれらの中では、二人は互いに視線を交わし、あとは一人だけやや遠いところに位置する人に視線を送ろうとするも、それが完全に無視される。全体の画面ははなはだパターンされた描き方ではあるが、豊かな視線の交差は、なんとも味わい深い。

これらの視線の焦点になったのは、いうまでもなくいまでも首を斬り落とされようとする盛久その人である。かれは一心不乱に読経に耽る。だが不思議なことに、普通ならそれをするために目を瞑るはずだが、盛久はしっかりと両目を見開いている。どうしたのだろうか。あるいは絵師が目の表現にあまりにも夢中になり、眼目の人間のあるべき姿を捉え間違えたのではなかろうか。

e国宝「清水寺縁起」

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