2018年6月3日日曜日

嘘をいう写真

ここ数日、前後して二件の妙な出来事が起こっている。いずれも個人的になんらかの形で関わりを持ち、ともに白黒の古い写真がことの発端を作り、しかも広く使われているSNSの環境がそれに思わぬ展開をもたらした。二つの出来事はとても似通っている。絵の議論をする場合、「写真だって嘘を言う」と警戒するが、まるで地で行く展開を見せていて、ここに記しておかざるをえない。

わたしが大学に入ったころ、その大学が十年間の空白を経てようやく再稼働した。そのような大学再開という歴史は、数えてちょうど40年となる。したがって当時のことを振り返るような動き、そしてそれをめぐる実際の発言などは、普通に考える同窓会とはかなり違う意味あいがあり、ひときわ大きい響きをもつ。そのようなところに、母校の史料館に残され、しかも特定の大学を超えたさまざまな記事などで引用された一枚の写真に登場した顔ぶれが議論されている。あわせて七人写され、その中の人々がそれぞれに述べる他の人間はまったく食い違っている。その一つのバージョンにわたしの名前も入ったが、さっそくそれには当たらないと、熱心にとりあげる昔の同級生を通して史料館に伝えてもらった。ほぼ同時に、大学生活が終わり、日本留学が始まろうとしたころの、学生宿舎での一枚の写真が同じ経路を辿る。その中の一人は大きくニュース記事のスポットライトを浴び、当時の様子を伝えるための写真を紹介した。しかしながら、あわせて七人の顔の中には、遠くからわたしを訪ねにやってきて、たまたまその場に居合わせた中学時代の二人の友人の顔が入っている。あの二人の友人とも、本人が知らないまま長年まったく関係ない歴史に組み入れられたという結果になっている。

とりたてていうまでもないが、写真には罪がない。それどころか、あくまでも希少で、あまりにも貴重だ。ただ一方では、写真に収めた情報は、どこまでもビジュアルなものなのにすぎない。そこに加わった当事者の証言がその情報の中身となる。その中で、知らずに流れた40年、人間の平均寿命の半分であり、生産する時間のほぼすべての長さにわたる。この事実をなんとも重い。ただ、広く参加されているSNSがあればこそ、写真が広く議論され、齟齬が訂正されていることも、見逃してならない。ありがたい救いだ。

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