一度は予告まで出したのだが、学生たちの学期レポートの中から代表作を選んで小さな一冊にするという作業はようやく完成し、勤務校の公式サイトで公開した。予想よりはずいぶんと長く時間を掛けてしまった。言い訳に聞こえるが、やはり若い学生たちはとても忙しい。そして、複数の人々を巻き込んでのことだから、一つひとつのステップは余裕をもって進めざるをえない。
収められたものは、そのハイライトについて前回短く触れておいた。それよりも、若者たちの想像力をすべて反映したものにはとてもならない。題材もアプローチもまずは重ならないように心がけ、似たものがあった場合は一つだけに留めることにした。あとは、使われたフォーマットも、ここに見られるもの以外では、特設のウェブページ、パンプレット、パこそコンゲーム、はたまた立体的なオブジェ、毛糸による人形、ひいては英語による巻物、などなど、あげて見ればじつに驚くぐらいの広い幅になる。それに対して、ここではあくまでも一つの読み物としての形に収斂した。いわば学生たちの学習成果のショーケースであり、そしてはっきりしたサンプルとして機能し、これからのクラスのためには目に見えるスタンダードになる。
この一冊も、もともとは前作と同じくGoogle Playを利用して公開する予定だった。しかしながら、現在同じサービスは利用停止ということを知った。ほかに安心して利用できるものはすぐに見つからず、しかもなによりも、電子ブックだから便利だという実感がいま一つ薄い。そのため、とりあえずPDFの形でダウンロードしてもらう方法を取った。電子出版は、いまだたしかなスタンダードの獲得に至っていないことをあらためて実感した。
Old Japan Redux 2
2016年2月20日土曜日
Old Japan Redux 2
Labels: 内と外・過去と現在
2016年2月13日土曜日
グーグル・サービス
グーグルとは検索を意味するとの認識は、いまやかなり浸透されている。一方では、検索を利用しようと集まったユーザーは、あわせて用意されたさまざまな便利なツールに気づき、それらを試すようになる。このような書いているわたしも、知らず知らずに惹かれて、いつの間にかかなり熱心なユーザーとなってしまった。そして結果的にグーグルが選択的に、ときには意図的に下した決断に振り回され、付き合わされる結果になる。
ここ数日の体験の一つを記しておこう。前学期の学生レポートから数編選んで纏まりのある一冊にするという、去年のいまごろに編み出したやり方を繰り返そうと、学生たちとのやりとりを続けた。それが一段落して、いざ同じく「Google Play」にアクセスしたら、書籍の形にすることへの対応はなんと数週間まえに閉鎖されるようになったことを知った。その理由には、さまざまな推測がされてはいるは、公式的な知らせは一切ない。そして、その目で見れば、ここ数日に入ったニュースには、あの「Picasa」の終了予告だ。こちらのほうは、電子出版とは比べ物にならないぐらい桁違いの影響が出てくるだろう。さらにグーグル地図では、地元の情報を提供させようと、あれこれと奨励措置まで用意されているが、個人の提供による写真の地図での表示は、いつの間には取り除かれた。かつてここでも記した「ストリート個人ビュー」も、リンクがあっさり切れてしまった。いずれも会社の都合による決定であり、それなりの周知さえ行われることなく、あくまでも利用しようとして初めて気づくといったようなものだ。もちろん、新しく加えられたものもある。今日気づいた「n-gram」というユニークな検索と表示は、じつに秀逸で、実用的でいて遊び心もある。そしてこちらもほうも、同じくどうやら正式に知らせた上での登場ではなく、関心があるユーザーなら自分で見つけ出して利用するという形態なのだ。
結局のところ、ここに「サービス」という名の提供者と利用者との間のユニークな関係性が出来上がっている。サービス、しかも無料となれば、提供者の取捨選択と、軽薄な責任感に直結することだろう。あえて言えば、利用者を利用するという暗黙の前提と、失敗や閉鎖を恐れない実験性なのだろう。これ自体は、いまの時代を映し出すユニークな「文化」だと認識しておくべきだろう。
Google books Ngram Viewer
Labels: マルチメディア
2016年2月6日土曜日
ビデオ・エッセイ
今週、インターネットで語られる話題の一つには、YouTubeで公開されている映画の構図についての解説ものがあった。一つの作品として、分類されて「ビデオ・エッセイ」と言われる。アップロードされてわずか二週間ぐらいしか経っていないが、すでに13万回以上閲覧され、300近いコメントが残されている。
作品は、15分と、いわゆるオリジナルYouTubeものの中ではかなり長いものの部類に属し、そのため、まずは真剣にとりかかることを要求する。その内容といえば、かなりの数の映画から、代表的な場面を数秒程度切り出して繋げ、せりふなどを省いて統一した背景音楽を配し、その上、作者自身による、はっきりはしているが、さほど工夫されたとも思わない解説の音声を加えたものである。一つひとつ選ばれた映画の場面は、とにかく美しい。贅を尽くした色の饗宴から、古き好き映画への記憶にいたるまで、見ていてとにかく飽きない。肝心の構図について解説は、フレームの使い方や、見る人の視線の誘導とコントロールなど、テーマも内容もさほど独特なものがあるわけではない。むしろこれまでは学術書や大衆向けの解説書において繰り返し語られたもので、ところどころもどかしさを感じさせられるぐらいだった。しかしながら、映画の解説なら、ビデオはやはり似合う。そしてオンラインでの手軽でいて確実な閲覧方法も、大きく寄与したものだ。
作品のタイトルは、そのまま日本語に直せば、「物語を伝えるための構図」である。映画という言葉は、特別に出ているわけではない。いうまでもなく、構図の原理から理解しようと思えば、なにも映画に限るものではなく、テレビドラマも、漫画・コミックも、西洋の古典絵画も、どれについてもこの魅力的なタイトルで見直すべきだろう。そして、絵巻も、その例に漏れない。
Composition In Storytelling
Labels: マルチメディア
2016年1月30日土曜日
描かれた事故
「古典画像にみる生活百景」は、あくまでも画像の選択に注意を払ったもので、それぞれの画面についての説明となれば、いまだゆっくり吟味する余裕はなかった。一例をあげるとすれば、世間の出来事の一つとして「事故(馬)」の項目があった。簡単な説明に「通行人の一人がすでに倒れている」と何気なく書いた。もちろん原作には文字の注記はなく、倒れた人ははたしてただの通行人なのかどうか、そしてどのような状態になっているのか、まったく知る由はない。
一方では、この場面を見つめているうちに、三条公忠の日記である「後愚昧記」の中で伝えられたつぎの記事が視野に入ってくる。永徳二年(1383)五月十日に記されたものである。実名はなく、年齢はわずか十二歳だった「衛府長」という人間についてのものである。馬に乗って、九条大納言教嗣の行列に加わっているうちに、牛童が牛車に牛を取り替えようとして牛を逃し、その牛が馬の間に追い出されて馬を驚かせ、あっという間に取り返しの付かない惨劇を引き起こした。日記の記述はつぎの文言となる。「馬驚出之時、(衛府長)忽落馬、被踏頸骨、両眼出云々、遂以死去、不便々々」。文字の数こそ多くないが、なぜか異様に生々しく、恐ろしいぐらい印象に残る死に様だった。
人間の良き友だった牛や馬も、時と場合によれば人の命を脅かす可能性を十分に持っていた。そのような実態を文字文献によって確認して、はじめて画像資料の重みや奥行きが見えてくる。「百景」の場面の一つひとつに同じレベルの注釈が望ましい。それははたしてどこまで実現できるものだろうか。
Labels: 画面を眺める