築地双六館 館長
私は、楊先生が国際日本文化研究センターで研究活動をしておられた時にインターネットを通じて知り合い、今日までお付き合いをいただいている築地双六館の吉田と申します。先生との出会いのきっかけは長谷雄草子に出てくる「双六」でした。今回、ありがたくも寄稿のご依頼があり、「絵双六の魅力」についてご紹介したいと思います。
■ 「1932年」の表現競争の勝者は?
最初にクイズです。「1932年(昭和7年 )という時代を誰にもわかりやすく、かつ瞬時に理解させるために、最も優れた表現方法を提示せよ。」これは、「2008年度カルガリー大学の入学試験問題です。」と言いたいくらい良い問題ではないでしょうか。
・ 芥川君曰く「それは文学だよ。小林多喜二の『蟹工船』は当時の社会経済的背景をよく表しているさ。」(文庫本で217頁)
・ 黒澤君曰く「いやいやそれは映画だよ。小津安二郎の『大学は出たけれど』は、大卒の就職率が約30%という不況の昭和初期の庶民生活を見事に描いているよ。」(上映時間70分)
・ 横山君曰く「何をこしゃくな。絵画だよ、絵画。例えば小磯良平。美人画から戦争画まで時代をよく描いておるのじゃ。」
・ 朝日君曰く「新聞こそ時代の表現者でしょう。1932年は、5・15事件があったり、チャップリンが来日した年であったことは当時の新聞を読めば一目瞭然です。」(16頁×365日=5840頁)
・ ネット君曰く「PCで見れば何でもわかるよ。検索キーワードは何?」
・ 吉田君曰く「色々な意見があるようですが、ここでは二つの軸から考えてみましょう。『情報の一覧性』と『テーマを理解するスピードで』す。別表を見てください。これこそが双六のメディアとしての特性を表しています。」
さあ、ここで、楊先生の登場です。
・ 楊先生曰く「双六の勝ち!この両軸であれば絵巻物よりも上かもしれませんなあ?!さあ吉田君、1932年の双六を紹介してください。」
■ 『大東京名所めぐり』双六にみる時代表現の極致
1932年(昭和7年)『大東京名所めぐり』 (「幼年倶楽部」10月号付録)(写真参照)をご覧ください。タテ62cm×ヨコ91cmのビッグサイズの紙面に、様々なシーンがびっしりと表現されています。この双六は、1923年(大正12年)の関東大震災から帝都が復興したことを印象づけるために作られています。「振出し」も「上がり」も東京駅。二重橋、新宿、日本橋などを巡りながら、東京の名所を微細でかわいいイラストで描きだしています。写真ではわかりにくいので、この時代を表す面白いシーンを紹介しましょう。洛中洛外図屏風や前九年合戦絵詞並みの時代描写力がわかりますよ?!
・ 東京駅は「振出し」も「上がり」も兼ね、一番重要な位置づけになっています。1923年(大正12年)の関東大震災の時に、東京の町は壊滅状態でしたが、東京駅はびくともせず、帝都復興の象徴的な建築物とされていました。駅前には、人混みの中にA型フォードの円タクが見られます。以下、コマの展開に沿って説明します。
・ 「丸の内」のビジネス街には、「保険の元祖明治生命」が描かれていますが、これは有料の入れ広告ではないでしょうか?この双六全体には、合計21個の企業や商品名が登場しており、名所双六と広告宣伝双六の両方の特徴を持っています。
・ 双六の中心には、瑞雲を伴った二重橋の宮城(キウジヤウ)があり、「桜田門」を経て「日比谷」に向かいます。お濠の近くを三つ揃いのスーツに山高帽とステッキの男性と日本髪を結った奥様が仲良く並んで歩いています。
・ 「報知新聞社」前では、お父さんが子どもの兄妹に「コレが報知新聞社ダヨ」と言っています。このせりふは如何にも広告風ですよね。
・ 「銀座」から「品川」に行く途中に泉岳寺があり、四十七士が吉良上野介の首(ちょっとリアル!)を浅野内匠頭の墓前に捧げるシーンがあります。
・ 「品川」沖には、海水浴場があり、泳いだり、ボートに乗ったり、潮干狩りをしたりする子どもたちがいます。外国航路の大型旅客船も見えます。
・ 「蒲田」では、映画の撮影場があり、ニッカボッカスタイルの監督がカメラを回しています。
・ 「羽田」には、飛行場と穴守稲荷が一緒に描かれています。飛行機は当然すべてプロペラ機です。
・ 「矢口ノ渡し」では、南北朝時代の武将である新田義貞の次男義興の悲劇が劇画タッチで再現されています。
・ 「渋谷」に行くと、NHKの社屋と電波塔が見え、「代々木」の練兵場では軍人が行進しています。
・ 「明治神宮」には、お爺ちゃん夫婦から子どもまで三代揃った家族が恭しく鳥居に頭を垂れています。その向こうには、「神宮球場」があり、ちょうどピッチャーが振りかぶったところです。明治チョコレートキャラメルのアドバルーンもあがっています。
・ 「新宿」の西には、のどかな里山風景が広がっています。洋風の二階建ての家もあれば、茅葺屋根の家並みもあります。火の見櫓の向こうには紅葉した山々が見えています。
・ そして、「高田の馬場」。ご存じ堀部安兵衛が義父である菅野六郎左衛門のあだ討ちを助け、村上兄弟ら18人と度りあっている大迫力のシーンがあります。昭和の初めにおいては、江戸時代はそんな昔のことではなかったのでしょうね。
・ 「池袋」から東京一の子どもの遊び場「豊島園」にかけては、ポリドールのポータブル蓄音機で音楽を楽しんだり、写生をしたり、ウォータースライダーで楽しむ子どもたちがいます。村山貯水池もあります。
・ 「練馬」では練馬大根の畑が、「赤羽」の向こうには浮間ヶ原でピクニックを楽しむ家族がいますが、国鉄をはさんだ反対側には、赤羽の工兵隊がいます。いははや。
・ 「王子」あたりは、今も昔も多くに印刷工場があります。大空には、ビラをまく飛行機が飛んでいます。
・ 「飛鳥山」では、お花見の代大宴会、紙芝居屋さんもいます。「上野」には、西郷さんも動物園の動物たちも賑やかに子どもを歓迎しています。
・ 「浅草」は庶民の町。観音様や吾妻橋の周りは小さな家がひしめいています。
・ 隅田川には汽船が浮かび、「亀戸」天神ではお茶屋でくつろぐ娘、「両国」国技館では和服、洋服、日本髪、パーマの老若男女が相撲の取り組みに沸いています。浴衣を着た夕涼みの家族には風情があります。
・ 江戸時代の初め阿部豊後守忠秋が大水の折に馬で隅田川を渡ったという伝説に基づく勇姿が描かれています。
・ 「三越」「日本橋」には白木屋をはじめとする百貨店があり賑わっています。
如何ですか。およそ四季折々60のシーンに400名の人が登場して1932年という時代を彩っています。社会経済、教育思想、軍国主義時代、家族風景、庶民の文化と娯楽、自然風景と江戸の名残り・・・双六はとても優れた表現方法でしょう!この双六は当時の少年少女に10万部くらいは配られおり、大きな影響力を発揮したことでしょう。
■ 盤双六と絵双六
日本に最初に登場した双六は、「盤双六」です。正倉院にも所蔵されているこの双六盤は、同じ「すごろく」という名前ですが、絵双六とは全く異なるものです。現代のバックギャモンにルールが似ている盤上の遊びで、みながとても熱中したそうです。楊先生の研究されている「長谷雄草子」にも双六をする鬼が登場します。この「盤双六」は、賭博性が高いため、禁止のお布れが何度も発せられ、やがて温和な双六へと変化していきます。今日、多くの人がすごろくと呼んで遊んでいるのは、紙に描かれた「絵双六」のことです。この絵双六は、13世紀後半頃にお坊さんの教育のための仏法双六として始まったというのがこれまでの定説のようです。時代がくだって江戸時代になると、浮世絵の多色刷木版技術の発達で、華麗で精緻なさまざまな種類の双六が発行されるようになり、今日に至っています。
■ 絵双六の魅力
絵双六は、それぞれの時代の風俗・習慣・価値観を映す鑑(かがみ)です。「上がり」にはその時代の 夢・憧れ・希望が見事に表現されており、庶民の息吹が伝わってきます。私は、絵双六の一番の魅力は、「ドラマ展開の一覧性」にあると思います。「日吉丸の天下獲り」や「東海道五十三次の全道中」や「ドラえもんの奇想天外な冒険」など、ドラマチックなストーリーがコマ割りされ、モザイク化され、それでいて全体として一枚の絵として総合化され、意味付けされています。どんな複雑なコンテンツでも一枚の紙の中に表現し、読者の右脳にイメージとして焼付けます。一つの世界、一つの価値観をこれほど短時間で読者に訴求できる表現手法があるでしょうか。絵双六は、日本が世界に誇るべき表現手法だと思います。
以上、私の絵双六への恋物語の一部をご披露しました。しかし、まだまだその魅力を語り尽くせていません。例えば、1942年(昭和17年)の「奇跡の双六」の話も面白いですよ。それはね・・。
残念ながら、字数が大幅オーバーです。いずれまたの機会に・・。
双六ねっと
2008年11月1日土曜日
絵双六に恋をして(吉田修)
Labels: ゲスト寄稿
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