2008年12月20日土曜日

竹崎季長の上訴

前回の話題の続きを書いてみる。

同じ講義で取り上げる日本の絵巻は、『蒙古襲来絵詞』に決めた。長い作品なので、その全部ではなく、竹崎季長の鎌倉出訴の経緯を記す上巻の五、六、七段のみ取り出し、これを機会にこの絵巻の大作をじっくりと読みたい。

改めて記すまでもなく、『蒙古襲来絵詞』は、竹崎季長が企画し、作成させ、かれ自身を主人公に据えた一種の私的な記録である。十三世紀後半に起こった二回の蒙古来襲の合戦では、季長がそれぞれ二十八歳と三十五歳という年齢であり、絵巻の奥書の日付は、最初の合戦から十九年あとの、季長が四十七歳になる年である。

前回に書いた絵巻の特徴、すなわち絵と文字との成立関係上の距離ということから見れば、『蒙古襲来絵詞』はちょうどそれの反対に位置するものであり、そのような特徴を反論しようとするならば、まっさきに想起されるものである。この作品において、文字によって表された世界がさきに存在し、あるいは語られていたとしても、それが確実に文字の文章に集約されるようになったのは、おそらく絵の成立と同時になるのではなかろうかと思われる。そのような理由もあるのだろうか、絵巻の文章は、丁寧に構想され、洗練されたものではなく、むしろ記録者のいまだ醒めぬ興奮をそのまま伝えようとした、生々しい臨場感にあふれるものだった。

たとえば、必死の思いで鎌倉に出かけて、ようやく肥後の守護・安達泰盛との対面が適えられた季長と安達との会話が、その典型的な実例だろう。二人の会話は、詞書として八十行も超えた長い文章となり、その中では、それぞれのありのままの発言として、十回のやりとりが繰り広げられた。中には、安達のつぎのような質問があった。

「ぶんどりうちじにの候か」(敵を生け捕りにしたり、殺したりしたのか)
「候はではかせんのちうをいたし候ぬ。てんきずをかぶらせ給候とみえ候うへは、なんのふそくか候べき」(それがなければ、合戦でのあたりまえのことをしただけで、恩賞のこと、どうして不満があるのか。)

季長の一図で、前後構わない訴えに対して、鋭くて要領が得て、しかも戦場の武士の気持ちをしっかりと受け止めた会話は、心を訴えるものだった。

いまでこそ『蒙古襲来絵詞』は、過ぎ去った歴史をビジュアルに記録する貴重な資料になる。だが、絵巻の後書きによれば、これが作成された理由は、あくまでも甲佐明神の神恩への感謝だった。そこでつぎのような素朴な質問がどうしても頭を過ぎる。そもそも絵巻というスタイルがここに用いられる必然性がはたしてあったのだろうか。竹崎季長と豪華な絵巻との繋げたのは、いったい何だったのだろうか。さらに言えば、専門の人の手に掛からなければとても作れない、いったん出来たものは簡単に複製できないというメディアの性格がどこまで働いたのだろうか。文字の、そして絵の饒舌さとともに、いつでも考えを誘ってくれる。

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