2008年12月6日土曜日

パピルス(papyrus)

前回取り上げた獅子博奕の絵は、パピルスに描かれたものだった。その「パピルス」とは、植物の名であり、そしてそれを用いて作られた古代エジプトの記録媒体のことであった。膨大な数に及ぶエジプトの古文書は、このパピルスに記されて今日に伝わり、無限に思われる時空を超えて遠く失われた文明をわれわれに語り続けている。

ここに、さほど言語の知識がなくてもすぐ気づくことだが、パピルス(papyrus)とは、ほかでもなくペーパー(paper)、すなわち「紙」その言葉だ。古代中国文明の代表格のものである紙は、このパピルスと比べれば、言うまでもなく遥か年輪の新しいもので、記録媒体としては、遠い後輩にあたる。これをめぐり、日本語版のウィキペディアは一つ非常に味わいのある説明を施してある。曰く、「中国で発明された紙を基準に」考えれば、パピルスとは「正確には紙ではない」。言い換えれば、紙というものは、ペーパーとは本質的には異なるが、八世紀前後に西洋に伝えられてからは、やがてペーパーという名前を乗っ取り、ついにはパピルスそのものを廃れさせ、それに勝るものとして西洋の文明に溶け込み、貢献するようになった。

このようにして言葉を対象に取り上げると、中国語の「紙」そのものについて自然に考えが及ぶ。漢和辞書などを調べれば、すぐつぎのようなことが教わる。紙とは、材料(製法)にかかわる糸と、音を表す「氏」からなる。「氏」とは「匙」の象形であり、薄く平らなものを表す。その通りだろう。一方では、この「氏」の音からは、どうしても「祇」を思い出す。『詩経』など古代の文献にすでに用例があったように、「ただ」「単に」など、限定する意味合いを含むのだ。やや突飛な言い方かもしれないが、古代中国語の語彙群の中において、「氏」によって示された言葉の位相は、たとえば日本語における「カミ(上、神、髪)」とは、大いに違う。紙とは、古代日本における外来の、貴重な物品であるものに対して、中国の伝統において、書写の媒体の王座に登りつめるまでには、あまりにも長い道のりがあった。亀甲、竹簡、絹、そういったものの名前を想起するだけで十分だろう。そのような歴史の中において、紙という新出のものが、記録媒体としての確実な地位を獲得ためには、きっと想像を超えた曲折があったに違いなかった。

「紙」という人間の発明を出発点に考えれば、一つの文明の縮図が見えてくる。簡単に破られてしまいそうな、ひ弱な物質だが、それが「神」と同音(同等?)のものに祭られ、それまで千年を単位に存在していたものを最終的に取り替え、言葉の中味まで入れ替えさせたということは、ほかでもなく一つの優れた技術のなせ業ではなかろうか。

友人の家の居間には、エジプトの旅行からのお土産である複製パピルスの絵が飾られている。観光用のものらしく、家族一人ひとりの名前などを古代エジプトの絵文字で書き表している。古代文明へのあこがれと、かつてそのような文明をもった人々の誇りを象徴的に伝える心温まる風景だ。

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