年末に差し掛かり、ひさしぶりに目的もなく漫然と読書する時間を持った。今度は中国古代の絵画にまつわるものに目を向けた。いわゆる「画論」というジャンルのもので、たとえば宋の時代に限定していても、優に十点を超えるものがあり、無心に読んでいて、実に楽しい。「画論」と名付けられるものだから、絵画についての論理的な叙述だと襟を正して取り掛かるべきものだが、しかしながら、読んでいて、なぜかもっぱら中国バージョンの説話と見えてならない。あえて言えば、日本の説話よりさらに文字数が少なくて、簡単なものだが、ストーリの輪郭を想像をもって補いながら、豊穣な世界である。
たとえば、あの有名な『図画見聞志』(郭若虚)から一つ取り上げてみよう。
その巻二は五代の画家九十一名の名前とそれぞれの事績を短く書きとどめた。中には、厲帰真という道士のこと、とりわけその「異人」ぶりがあった。酒飲みなどのことに続いて、絵の上手なことに触れる。それは、つぎのようなエピソードに結ばれる。住んでいるところが雀や鳩の糞などに汚され、鳥への退治を工夫せざるをえない。そこは絵師らしい対応が見事だ。雀や鳩の天敵である鷂(はいたか)を壁に描く。それだけで糞害がぴたりと止まった。言うまでもなく絵の出来栄えの並々ならぬことを物語るもので、いかにも中世的な驚異の視線が感じられて、微笑ましい。
そこまではよかったが、しかしながら、同じ『図画見聞志』を終わりまで読み進め、その巻六の最後の一話を目にするに当たり、思わず唖然とした。それのタイトルは、「術画」。やや長い段落となり、いくつかの逸話が採録されたが、その中の一つはこうである。ある評判の高い「術士」が皇帝のために鵲(かささぎ)を描けば、俄かにもろもろの鳥たちが賑やかに集まってきた。続いて黄筌という絵師に同じ鵲を描かせれば、鳥が一羽も飛んでこない。不思議になった皇帝が黄筌に問いただして、つぎのような答えが戻ってきた。「臣所画者芸画也、彼所画者術画也。」すなわち、自分とあの術士との区別は、「芸画」と「術画」の差にあり、しかも自分の芸画こそ、術を何倍も上回ると誇りを持って主張したのである。この答えには、皇帝が共感できただけではなく、同じく絵師たちのことを集め記した作者郭若虚も自ら従うと宣言した。したがって、作者がこの記録をつぎのように結んだ。絵師の出来栄えとして、描かれた人間が実際に壁を越えたり、美女が絵から出てきたり、水の中の色彩が現れたり、あるいは霧の向こうに竜が飛んでいくといった伝説は多いが、いずれも「方術怪誕」であり、その故、書き記さない、とか。
ここまで読んできて、さきの鷂のことが分かったと油断した矢先に、まさに不意を撃たれた。作者にとって、実は数々の突飛な逸話を、超自然だということで切り捨てたのだ。まるで近代の科学的な構えではなかろうか。しかも時が流れ、千年も近い後の現代において、術が濾過され、淘汰されて、消えてしまったせいだろうか、芸と術との対立も忘れられ、それどころか、それが「芸術」というあらなた造語として生まれてきたものだ。まさに不思議な世界である。
郭若虚『図画見聞志』
2008年12月27日土曜日
「芸画」と「術画」
Labels: 漢字を育んだ時空
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