人間は、思いの外、取り返しの付かない悔しいことになると、それを自分の体をもってどう表現するのだろうか。思いをここに至ると、いつも「平治物語絵巻」に描かれたあの有名な場面が浮かんでくる。滑稽なほどのあわれな運命を辿った藤原信頼という名前は何回も確認しなければならないのだが、絵に残されたかれのユニークなポーズはいつまで経って忘れられない。
画面の中において、信頼は読者に正面に向かって立ち振舞、手足を素早くばたばたし、まるで舞台の上から精いっぱいのパフォーマンスを披露しているかのようなものだった。これを見ると、いたって自然に「地団駄を踏む」という言葉を思い出し、ポーズと言葉との両者を互いの証左に並べたくなる。もともと地団駄、あるいは、踏鞴(たたら)という、足で踏んで空気を吹き送るふいごのことこそ、絵と同時代の文献に遡れるが、それが悔しいことの表現への変身は、どうやら浄瑠璃が流行った時代を待たなければならない。一方では、「平治物語絵巻」は、かなり似たような発想に立脚して異なる表現を選んだ。詞書には「護法などの様にをどりあがり々々しけれども、いたじきのみひゞきて、そのかひなし」とあって、今日では喜びの表現に収斂した「踊り上がる」という言葉をこれに当て、それも「護法」のようなものだと、その行動の様子を描写した。「護法」には、仏を守る鬼神と、悪霊を退治する呪術という二つの意味があって、ここではそのどれを指すのか、にわかに判断できない。
絵巻の本領は、絵と言葉とのしっかりした対応をもって物語を伝えることにある。一方では、それを明らかな前提だとしても、互いに対応した画面と記述を物語から切り離し、身体表現をはじめ、その時代の人間や生活を観察するためのたしかな資料として使用することには、当然耐えうるものなのだ。
「平治物語絵巻・六波羅行幸巻」(東京国立博物館蔵)
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