「注釈絵で読む徒然草」と名乗って、週二点のGIF動画の公開をつづけている。その中、第40段について、「妙な話」「満足な答えが得られない」とのコメントに対して、興味深い教示が寄せられた。小林秀雄の『無常といふ事』(1946年)を紹介し、それをめぐって議論する、わずか数週間まえのブログである。
あの批評の大家をして同じく「珍」をもってこの段を語らせたことには、まずは驚いた。一方では、小林の論が向かう先には、「無常」という大きなテーマにおいての兼好の立ち位置であり、兼好の書き方を鋭く指摘したと賛同しながらも、あくまでも抽象的で、同じ指摘は『徒然草』のほとんどの記述に当てはまり、その分、この40段への答えにはならなかったとも言えよう。
そこで、栗しか食べないという因幡国の娘をめぐり、その親がすべての求婚を断ったということをわざわざ記した理由とは、はたしてどこに求めるべきだろうか。兼好がそれを明記しなかった以上、読み手が答えを探るほかはない。はたして『徒然草』を熱心に読んでいた江戸の文人たちは、さまざまな言説を残してくれた。『徒然草諸抄大成』を頼りに二、三上げてみよう。娘の親を褒め称える意見として、娘の外見と内実が一致しないことを悟っているから失敗を避けた(恵空和尚『参考抄』)、もともと持ち合わせていないものを世の中に求めるべきではない(高階楊順『句解』)などに対して、そのような娘を育てた責任はそもそも親にあるのだ(長頭丸『貞徳抄』)という辛口の批判もあった。まるで重奏を成したかのような互いに譲らないこれらの見解には、納得の答えが隠されているのだろうか。
2020年2月22日土曜日
因幡国の娘
Labels: 内と外・過去と現在
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