2008年8月9日土曜日

オリンピック開幕式の絵巻

北京オリンピックの開幕式は無事に終了した。一大イベントを伝える地元のテレビ放送は、朝五時から始まり、いつになく早起きして、テレビの前に座ってこれを満喫した。

盛大なショーのテーマが絵巻だと、事前に分かっていた。それにもかかわらず、絵巻がここまで主役を張ったとは、やはり驚いた。巨大な巻物の真ん中に白い紙が敷かれ、まるで一点の墨となった人間が、手だけではなく、体全体を使って絵を描いていくことをもってショーが始まり、絵巻全体がスポットライトを浴びながら、途中、巨大な画面が垂直に吊り上げられたり、宮廷を象徴する柱が聳え立ったり、荒波が飛び交う海と変身したりして、まさに豪華絢爛、言葉その通りのものだった。しまいには、絵巻の画面が突き出て、選手宣誓のためのエレガントな舞台に早変わり。まさに絵巻との発想が得られたことで、巨大なショーの全体の構想が得られたという感じだった。

しかしながら、肝心の絵巻としてこれを見るとなると、どうだろうか。舞台ショーだと分かっていても、一つの古典文化を理解する、再現するという意味で、それがわれわれの知識と常識にどれだけ合致しているのだろうか。結論から言えば、そこにあるのは、いかにも中国の絵巻であり、日本のそれとの距離が面白いぐらい出ていた。それの終極的な表現は、出だしの、絵巻が開かれるという瞬間に集約したと言えよう。紙が作られ、巻物が仕立てられるという短い画像がスクリーンに映されて、その間に千人規模の出演者が入れ替わり、スタジアムの中に出現したのは、おもむろに開かれる大きな絵巻だった。巻物の両端の巻き軸が目が眩むほどに輝きながら巻き拡げられた。しかしながら、それがまるで大きなドアが両開きするかのように左右の方向へと同時に開かれていった。絵巻を見慣れた人には、目を疑うような光景だった。これって、古い巻物が保存された状態から披かれるというはずがない。ならば見やすいように事前に用意された巻物、といったことだろうか。それだとしたら、連続する画面のつぎに移す場合は、どうしたらよいのだろうか。読者が一旦目を逸らすようにすべきだろうか。考えるほどに困惑してしまう。

いうまでもなく、大事な読者を中心にして、行き届いたサポートをしよう、という設定だといえば話は簡単だ。だが、そのような用意できるかどうか、読者のためにどれだけ贅沢な環境を提供するか、という内容のことではない。巻き軸が同時に両側へ開かれていくということは、それを見る目が自然に画面の中心に据えられ、そこから広がっていくということを意味する。一枚の絵を見るならいたって正当な眺め方だろうけど、一組の絵の続きとなれば、いかがだろうか。

じつは、中国と日本の絵巻との差異はと聞かれ、これまでいくつかの場で述べてきたが、それが、絵によるストーリの伝え方にあるものだと考える。さらに言えば、中国絵巻の名品の多くは、どの絵を取り出してみても、そのまま一枚の絵として丁寧に観賞することに耐えうるような構図をもつ。読者の立場から言えば、次から次へと展開してくる絵の流れを、半ば予期しながら興奮して目で追うという日本絵巻の楽しみ方に対して、中国の絵巻は、どうしても襟を正して、絵の前に背を伸ばして座り、それをじっと見つめることが望まれるみたい。絵師の工夫も絵の構想も、それを前提にしているとしか思われない。

北京オリンピック開幕式への中国のマスメディアの賛辞も観客からの感嘆も、まさに「山水画を見る思いがする」というものだった。ステージの構想が得られたとしても、物語を表わす絵巻より、抽象的な審美が要求される掛け軸の絵が上位にあるものだと、そのような潜在的な美意識が根強く働いていると言えよう。

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