2008年8月16日土曜日

現代生活の「画巻」

オリンピック開幕式のおかげで、中国で絵巻ならぬ「画巻」がいまや多大な注目を集めている。ならば、もう一回画巻のことを書いてみよう。去年の秋には、一つの現代語彙としての「絵巻」のことを取り上げた。(「現代生活の絵巻」2007年10月17日)それに倣って、中国での現代生活で「画巻」とはどのような位置を占めているのか、考えてみよう。

個人的な印象としては、「画巻」が日本語における絵巻より遥かに用例が少なく、とてもポピュラーな地位を得ていない、さほどスポットライトに浴びていない、とのものだった。しかしながら、実際に調べてみたら、必ずしも簡単にそれで片付けてしまうものでもなさそうだ。たとえばYAHOO!の中国と日本のサイトにこの二つの言葉をそれぞれ入れたら、5百万と7百万のヒットが出てきて、一応は同じレベルの用例があると言える。それらの中味を見ると、さらに絵巻と同じような使用法あるいは活用法が認められる。

いくつかの実例を見てみよう。

「画巻」は、同じように抽象的な比喩に用いられていた。『夜宴図』といった、有名な屏風絵にかたどった古代の宮廷生活を披露する小説のみではなく、現代生活を描く作品まで、衆生相を俯瞰するとの特徴を訴えるものとしてこの言葉が選ばれた。いうまでもなく、そこに古風で優雅な画巻との認識が隠されている。さらに、政治的な行事から単なる新商品のアピールにいたるまで、ほとんどなんの文脈のつながりもなくこれが持ち出されたことがある。それがわずかに写真の寄せ集めであったり、「田園画巻」と名乗ったさまざまな模様をもつフローリングの材料だったり、あるいはポストモダン的な奇抜な写真のコレクションだったりする。中では、「傑出歴史人物郵票画巻」という歴史人物を対象とする切手の特別テーマ集なら、言葉選びにまだ同感が得られるが、「鬼画巻小遊戯」となると、日本発のテレビゲームから敷衍して生まれた、日本語的な造語をそのまま中国語に直したのではないかと錯覚するぐらい、中味と表現とのちぐはぐを感じさせられる。

一方では、画巻の姿を心の奥に留めておいた、しかもそれを形にする努力をじっさいに体を張って試みたとの出来事も報道された。たとえばオリンピックを迎えるために、繁華街の歩行者天国をスタジオに見立てて、子どもたちによる百メートルにおよぶ巨大な絵巻を描かせる。日本でも繰り返し見かけられるような風景ではなかろうか。

このようなさまざまな画巻が飛び交う中で、じっさいの巻物はいまなお姿を留めているのだろうか。どうやら完全に忘れされたものではなかったようだ。現代の作家たちが「中国古代百名文化名人巨幅画巻」となるものを新作してそれを競売に送り出し、あるいは「円明園四十景図」という30メートル近い清の時代の作品を限定複製して愛好者の心をくすぶる。画巻という作品形態がもつ魅力を見据えての、巻物の再生産にほかならない。

ちなみに、以上のような漫然としたネットサーフィンも、予期せぬ古典との出会いをもたらした。「張勝温画巻」という題名がはじめて目に入った。1180年の作だと伝えられ、仏教の興隆を記録したものである。興味深いことに、巻物全体は134「開」、すなわち伝来の間にかつて巻物から折本に仕立てられていたとのこと。「巻物の変身」(2008年2月24日)において触れていた日本での巻物の実態を画巻でも確認できたことになる。

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