2019年4月20日土曜日

ノートルダム

今週に伝わってきた大きなニュースと言えば、なんと言ってもノートルダム大聖堂の炎上だった。SNSの投稿を覗いているうちに目に飛んできて、おそらくデマではないだろうとほかのサイトなどで確認をし、衝撃と悲しみの気持ちを禁じ得なかった。数えてみれば前回訪ねたのはすでに五年前となる。クリスマスのイブを大聖堂の中で家族全員で過ごし、忘れがたい思い出になった。(「聖書絵」)

火災のことはさることながら、今度はこれに誘発された各国の反応には、思いも寄らないものがあった。中国のネットでの議論は、なぜか百年五十年もまえの円明園焼失のことを引っ張り出したのがあって、はなはだがっかりした。さいわい、そのような言論に対して、より強くて行き届いた反論や非難が上がり、少なからずにほっとした。ノートルダムをもって不朽の名著を残したあのヴィクトル・ユーゴーが円明園の破壊に対してすでに声をあげて文明の破壊を批判していた。あの時よりも後退し、文明への眼差しを歪まれることは許せない。一方では、大聖堂の修復にかなりの寄付が集まったのだが、これもまた思わぬ形で非難を招いているもようだ。寄付した人は税金の免除を訴え、批判されてその願いを取り下げたと聞く。遠く離れたここ北米のニュースメディアはその間の経緯を取り上げ、議論の先は、税金政策をもって巨大企業に社会運営に参加させるというやり方自体への反省に向かった。教育や救済などの善行にお金を使うことは、不義の、あるいは社会からより厳しく監督されるべき経営行動から目を逸させ、一種の免罪符になったとの警鐘である。

八百年の長きにわたる大聖堂そのものについての議論は、自明なことだからだろうか、あまり大きな声にはならない。あるいは、いまのような世界範囲で、ただの古建築や文化遺産以上に社会生活全体への反省に繋がっていることこそ、ノートルダム大聖堂の重きを物語っていると言えよう。

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