黄表紙『敵討義女英』。この作品のキーワードは、いうまでもなく「敵討ち」だ。しかもそれにかけての、女性の中の英豪たる小春という一途な女が主人公である。ただ、今日の感覚で一読すれば、だれもが解けない疑問に打たれる。そもそも小春は命を落とした悲劇的な人物であり、敵討ちの対象となってしまい、その行為に参加したような運命ではなかった。それなのに、その彼女がどうして英豪と称されたのだろうか。遠く江戸の読者たちがこれを盛んに読み、大いに共鳴を感じていたからには、それなりの理由が存在し、今日とは違う、今になったら失われた考えがこれを支えられていたはずだ。それはなんなのか。
つぎの推論はいかがだろうか。敵討ちを最上の使命としたのは岩次郎だ。ただ、この秘密を知った小春は、すでに岩次郎と心身一体となった。岩次郎によって自分の父親を失いたくない。一方では、どのような形にせよ、岩次郎の敵討ちを中止させてしまったら、かれの生涯の目標を奪ってしまう結果となる。このようなジレンマに押されて、小春はついに自分の命という、以上の二つの選択に比較して小さいと本人が判断するものを差し出したということだ。言い換えれば、敵討ちという大義名分は、それだけ拒めない威力があったものだ。この話の出自は、『源平盛衰記』における文覚上人の出家談だったことはよく知られている。だがそこには、男女の情愛や欲望があっても、それ以外のものはなにもなかった。だからこそ、敵討ちという新たな論理を持ち込んだことは、まさに黄表紙作品の創造であった。しかもこれははっきりと江戸の人びとの感性に訴え、根強い理解や共感をもって受け入れられたと言えよう。この作品をあらためて読み返したのは、今週水曜日に行われたネット授業のおかげだ。誘ってくださった板坂先生や多くの感想を寄せてくれた学生たちに感謝したい。
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