半年ほど前に一度くずし字をめぐる議論を試みた。(「くずし字」)そこに示した用例のページ(『絵本太閤記』、初編巻之九、十一ウ十二オ)は、もう一つの話題を提供してくれているので、記しておきたい。くずし字字体の識別から、それへの認識、さらに言えばそれに託された文字への美意識である。
わずか十一行の一枚(十一ウ)において、「陣」(10行)と「阵」(9行)が同時に現われた。同じ行に「东」(9行)の用例も認められる。違うページに「東」の字体が用いられることは容易に想像できよう。さらに見開きになっている十二オには、「討」(2行)と「诛」(8行)と、言偏の違う字形が並存する。中国の文字を語るところの「簡体」と「繁体」の字形は、ここまで隔たりなく、一体になったように溶け合うことには、少なからずの驚かされている。このような字形の変化、新しい形の成立の理由などなら、文字を歴史的に語ろうとすれば簡単だろうが、そのような違う字体は、時と場と書き手と、それから文書の性格の異なるものにおいてかけ離れたまま存在することが基本だろう。それがここまで狭い空間で隣り合わせにさせるには、はたしてどのような理由が働いていたのだろうか。答えの一つには、違う字体を用いてそれが美しいという意識が底流にあったと指摘できよう。そしてそのような感覚は、字母が異なる複数の仮名を同時に使うという仮名文章の実践に支えられていると考えれば、はたして穿ちすぎだろうか。一方では、伝達の手段としての文字は、それを利用する側にとっても受容する側にとって、効果的でなければならない。そのため、字形はやがてどれか一つに統一することが要求されよう。そしてそのような実用的な要素は、やがて美しいと感じる感覚を乗り越え、そのような感覚を変えてしまうという趨勢を辿らなければならない。
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