2009年1月10日土曜日

比喩と説教の「十牛図」

大学の新学期は来る月曜日から始まり、冬休みの最後の週末である。いまだ丑年のお正月気分に浸りながら、今日も牛の話を続けよう。中国の「十牛図」を取り上げたい。

これも中国の絵などに興味を持つ人なら、何回も聞いたことのある作品である。もともと禅の教えを説くものとして作成され、古いものは、宋の時代の禅僧に遡り、廓庵僧(師)遠、普明など複数の僧侶の名前が絵師あるいは作者として伝えられる。しかも一つの古典作品の存在形態としてはむしろ特殊で、文章も絵柄も、その宋の時代においてすでに多彩なバリエーションを持っていた。

まずは、タイトルの「十牛図」が誤解を招く。ここに登場しているのは、なにも十の牛ではない。話の最初から最後まで通りぬいたのは、あくまでも一匹の牛であり、あえて言えばその牛をめぐる十の状況である。すなわち「尋牛」「見跡」という題目で言い表されたように、牛を探し求める、牛の跡を確認する、牛を発見する、牛を捉える、牛を飼い馴らす、牛に乗って家へ戻る、といった、いたって明晰にして細かいプロセスである。一方では、十のプロセスが丁寧に絵画化される。ただし、たとえば「尋牛」では当然牛が見えないので、十の状況において、牛の姿が登場したのは、わずかに四つにすぎない。そのような牛のことについて、たとえば、「見牛」の状況は、牛の体の後半を描くといった漠然とした絵柄の共通性も認められるが、しかしながら、話の進行にともなって、牛の体が黒から白へと変身していくとの構図もあった。絵の表現そのものが必ずしも定まった方向へ展開したのではなく、むしろ積極的な変化を理想としたものだった。

いうまでもなくここに語られているのは、牛であって、牛ではない。巨大な牛とは、探し求める真理、あるいは禅への悟りに対する比喩に他ならない。しかもその道のりは、非常にはっきりした方向性と、分かりやすい段階を持つ。牛を探すために出発した旅は、牛を得ることをもって入門し、牛を忘れ、牛を求めること、ひいてはそれを求めようとする主体まで無に付することを最終目標とする。いかにも発想の逆転であり、愉快なほどの言葉あるいは概念の遊びである。

「十牛図」の思索な魅力に惹かれて、これを敷衍する議論は、まさに「汗牛充棟」、書物にすれば部屋をいっぱいさせ、牛に汗を掻かせるほどの分量だった。活気漲る牛の姿を見つめながら、宗教的、哲学的な悟りに憧れるのか、それとも、超然的な思考とあまりにも整然とした精密なプロセスとの奇妙なほどの矛盾を覚えざるをえないのか、読む人の価値判断そのものが映し出されるものだとも言えよう。

承天閣美術館蔵「十牛図」(伝周文絵・絶海中津筆)

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