2020年7月4日土曜日

授と受と

『徒然草』(一〇八段)を読んで、新しい言葉を習った。「筆受」。注釈や現代語訳などを調べたら、「翻訳を文章にする」などとある。外国語を勉強している身としては、やはり興味を持たざるをえない。

言葉の由来については、江戸時代の古注釈ですでにはっきりと指摘した。『参考抄』(恵空和尚)は、「長水楞厳疏」からの引用として、つぎの文を示した。「筆授或云筆受。謂以此方文体筆其所授梵本。緝綴潤色。令順物情。不失正理也。」(筆授は筆受とも言う。語られた梵語の原文をこちらの文章にし、表現を潤色し、読みやすくかつ元の意味を失わないようにすることである。)出典を確かめてみれば、たしかに「大正新脩大蔵経」(第三九巻八二七頁)に収録される『首楞厳義疏注経』にこの通りの文章が認められる。(写真は国文学研究資料館蔵『首楞厳義疏注経』一上十七オより)さらに中国のほうの記述などを見れば、同じことは仏典翻訳の作業として早くから確立され、とりわけあの玄奘法師が天竺から持ち帰った仏典を翻訳するという一大プロジェクトにおいて、すでに大きく役割を果たしていた。共同作業による翻訳の一端を覗かせてくれた。

考えてみれば、授と受は、まるきり対立する言葉である。なのに、ここの特定の文脈においてまったく同じ意味として使われている。その理由は、文字の発音が同じということにあるのだろう。そこで言葉の意味を解釈すれば、日本風に書くと、(文章を)筆をもって「読者に授ける」、あるいは「翻訳者から受ける」、といったところだろうか。

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