2007年10月16日火曜日

異時同図・その反対

日本絵巻の特徴を語るとなると、「異時同図」という言葉はすぐに出てくる。言葉自体の人為的な作りは、妙に専門的なニュアンスを持たせて、一種の権威を感じさせる。

考えてみれば、この言葉にはどこか落ち着かない。違う時間の中に行われた出来事が同じ場面のなかに繰り広げられる、というのがこれの指す構図である。たとえば『信貴山縁起』のなかの大仏前の礼拝、『伴大納言絵巻』のなかの喧嘩、である。ここでは、異なる出来事もその図の一部であり、「同図」が意味しようとしたのは、これらの出来事が展開される同じ背景、状況である。したがって、あえていえば「異時同景の図」「異時同場の図」といったところだろうか。いうまでもなく指す内容さえはっきりしていれば、このレベルの用語の不備はさほど問題にならないといえばそれまでのことだ。

ここで、この言葉に惹かれて考えみたいのは、これと反対する構図が成り立つかどうか、ということだ。すなわち、「同時異景」である。

同じ時間に行われた行動をまったく異なる背景のもとにおいてそれを表現する。このような構図は、今日の漫画などにはいたって基本的なパターンであり、見慣れたものかと思う。たとえば友達同士の電話会話となると、いつも一つの画面を二つにして受話器を握る二人を描く。二つの場面の差が大きいほど、会話の内容がクローズアップされ、ストーリーの深みが増す。

そこで絵巻の画面には、このような構図が用いられていたのだろうか。あってもおかしくない、あるはずだ、と睨む。あまり指摘されていないというのは、ただこれまではこのような目で画面を眺めていなかっただけのことだろう。

たとえば無数に描かれた臨終と来迎の図は、その一例と考えられないのだろうか。高名の僧侶あるいは篤誠の信者は極楽浄土への往生が約束され、その死と同時に菩薩が祥雲に乗ってやってくる。典型的な構図は、横たわる主人公と、菩薩を囲み雲の上を舞う天女である。しかも多くの場合、雲の上の様子はまわりの人々の視線には入らない。主人公の死という一つの瞬間においての、体と魂の分離と、魂を迎えるための天上界の準備という、まったく対照的な二つの場の様子が広げられていると読み取っていいだろう。このような目で読むと、ストーリーの描写においての多くの構図からは、絵師たちの隠された工夫が伝わってくるに違いない。

ちなみに、「異時同図」という捉え方はあまりにも盛んに行われたからだろうか、東洋美術研究の学者、たとえば小川裕充、古原宏伸らの大家は、いずれも中国絵画からの実例を報告して、それが日本独特のものとは言い切れないことを強調する。そのような視点も必要だろう。しかしながら、同じ構図の実例が中国の絵画に認められたにせよ、古代の中国の画家たちはこれをさほど夢中しなかった、多用しなかったことも確かだ。「異時同景の図」とは、やはりいたって日本的なものだと考えたい。(絵:『融通念仏縁起』下巻第二段より)

2007年10月13日土曜日

「西遊記」に夢中した日々

書画目録図録を捲りながら中国絵巻の実例を探し求めているうちに、「唐僧取経図冊」が目に入った。数年前に『玄奘三蔵絵』を読んだころにすでに出会った絵だ。孫悟空と唐の三蔵法師、この組み合わせからはすぐ子供ころの中国古典小説を親の目を盗んで読んだ記憶が蘇る。

中国古典の伝統の全体においてどうであれ、個々の経験においては、画像の分量が圧倒的に少ない。しかも山水画などが中心で、いわゆるハイカルチャーのイメージが強く、襟を正して取り掛かるようなものがほとんどだった。それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、わずかな経験はつねに強烈な思い出として残る。わたしにとってのそれは、『西遊記』を通じてのものだった。

あれは紙もすっかり黄色くなった年代物の読み物のセットだった。親、いやお祖父さんにとっての大事なものに違いはなく、子供ころのわたしには簡単に触らせてもらえるようなものではなかった。それでもずいぶんとこっそりと取り出して、一人で半分ぐらい分かったような気がする文字を追いながら、ストーリーを楽しみ、そして挿絵をじっくりと見入っていたものだった。絵は、一章について一枚のみに留まり、それもすべて一冊の最初に綴じられたものだった。いまから思えば、分量も少なく、絵が描き出す内容も非常に限られたものだった。でも、子供だったわたしには、それはもう最上の喜びだった。いくら眺めてみても飽きることはなく、どきどき、わくわくした気持ちと、本を閉じたころの満足感は、言ってみればいまごろの一部の映画を見終わったときの爽快感をはるかに超えてしまうものだった。そのような読書の経験は、西遊記を「自分のもの」との思いにさせてくれた。そして玄奘三蔵の話が時空を超えて今日にどのような奇天烈な展開を見せても、たとえ女性の俳優によってそれをテレビやスクリーンに再現しようとも、漫画や電子ゲームにゴクウのキャラクターが一世風靡しようと、それらをすべて相対的に眺めることが可能になった。

いまは、日本の絵巻を学問の対象として読み続けている。絵の分量もストーリーの密度も、「西遊記」の一枚の挿絵をはるかに超えてしまうものが多い。新たな作品を紐解くときには、高い好奇心もつねに持ち合わせている。一方では、作品との距離を意識的に取り、覚めた視線を自分に課しているのもたしかだ。そのため、子ども時代のあの熱い視線と高揚した好奇心がときどき無性に恋しくなるものだ。(絵:「唐僧取経図冊」、中國繪畫總合圖録 より)

遊子館図書目録

2007年10月9日火曜日

カラー印刷

カラー印刷出版技術の進歩はすさまじい。絵巻などの古美術を写真に納めて印刷出版したものは、たいてい一目で見ればおよその出版年代が分かる。それぐらい歴然としたものだ。

一方では、出版の数に比例して、なぜかその魅力が小さくなると感じるのはわたしだけだろうか。絵巻でいえば、一流作品の全点出版が終わり、それも手ごろな値段で個人の手に入るようになってから、作品の部分々々をクローズアップで見せることしかできない、出版のランク付けには用紙の質に頼ってしまうような安易な出版物には、つい敬遠してしまう。

その中で、最近印象に残った一点をここに記しておきたい。出光美術館が2006年に発行した『国宝伴大納言絵巻』である。この一冊の魅力は、一言で言えばプレゼンテーションに工夫を凝らしたことにある。同じくクローズアップの写真を組み入れることで絵巻を紹介するという枠組みの出版でありながら、その写真の撮影と選択は秀逸だ。ふつうならオリジナル作品のイメージを壊すのではないかと危惧する蛍光撮影、料紙の質感を出すような接写、陰影を強調して演出した立体的な出来栄えなど、出版物としての遊びが至るところに見られて、読む人にも絵を見直すきっかけをなにげなく与えている。ページを捲りながら、写真の魅力をあらためて認識させられた。

写真印刷を通じて古典の作品を正確で綺麗に再現し、出版物の形で読者の手に送り届けるという意味では、現代の出版産業はすでに大きな一ページを作り上げたと言える。でも、印刷出版の役割が終わったとは意味しない。カラー出版はこれからもこれまでにまして続けられることだろうし、そうしなければならない。

これまでの出版では、満足できないことはいまだたくさんある。絵巻の作品に因んで一例挙げれば、オリジナル作品に近い閲覧環境の提供がいまだ十分に成されていない。絵巻は、もともと披いては巻戻して見るものだ。ただし巻物という物理的なスタイルは、今日になればさすがに時間的にも空間的にも経済的ではない。だが、それにもかかわらず、書籍の形になった出版物で、一ページの裏表にある絵を記憶の中でしか繋げることができないことはもどかしい。一段の絵を中断しないで通覧する経験はぜひ持ちたい。おまけにページを綴じた谷間はやはり見苦しい。一段ごとに分かれた、折込式の印刷物があれば、どれだけ助かるものか。

新たな姿になって現われてくるカラー印刷の出現を一読者としてせつに願いたい。

印刷用語辞典

2007年10月6日土曜日

絵巻の文法

絵巻には絵巻の文法がある。あるはずである。

これはじつに魅力的なテーマだ。ただし、これは先に予測ありきの命題であり、絵画をもってストーリーを伝えるというれっきとした表現形態においては、それなりの規則、ルールがあるに違いないとの思いがそもそも出発点だった。研究者たちは、したがってその文法とはなにか、いかに働いていたのかと、手がかりを求めて議論を試みる。非常に周到な意見もあれば、絵巻解読するために回答すべき難問へのアプローチとする実例も見る。

だが、それでもこの絵巻の文法というものの全容はなかなか現われてこない。

ここに、まずわたしの理解するところの「文法」の一例を掲げてみよう。

絵巻の中では、貴人の邸宅を描くにあたり、多くの場合、門前あるいは地下に伺候する従者の姿を描く。それはふつう男二人であり、しかもほとんどの場合その中の一人はすっかり居眠りの中いる。二人の男のささやかな対照や心地よいぐらいの格好は、愛嬌があって憎めない。さらにストーリーがまさになんらかの進展を見せようとし、このような居眠りの姿は、奥あるいは殿上でくりひろげられてくる劇的な一瞬ともう一つの比較を成す。ここにおいて、門前の従者、とりわけその居眠りの姿は、計算された時間流れを演出する。男が居眠りをするほどゆっくりした時間と、クライマックスの一瞬という、時間の異なる姿をすべて巧みにこの一つのパターンと化した構図によって描きだされたと言えよう。

ここに、状況、内容、意味あい、すべてがセットとなって絵巻の定番の構成要素となる。まさに「文法」に操られるような感じだ。あらためて断るが、これはあくまでもわたしの読みである。文法というものははたしてこのレベルで切り出してよいものかどうか、いまだ共通した見識があるわけではない。

だが、文法というのは、言語の領分だ。したがって文法と名乗った以上は、言語におけるそれとの比較がどうしても問われる。両者の本質的な違いと言えば、ルールへの依存、ということにあるのではなかろうか。言語における文法は、まさに言語そのものが成立するための基礎であり、これがないと表現が成り立たない。でも、そのレベルのルールは、絵の表現においては簡単に探し出せない。これまで議論されてきた絵の文法、あるいはそれにかかわるルール、規則といったものはどうしても二次的なものである。さらにいえば、そのようなルールがはっきりとした形を持ち始めると、表現者としての絵師は自然にそれに反する方向へ走り、そのようなルールを破り、それからはみ出した構図をもって読者をあっと驚かせ、楽しませる。現にそのような工夫はいくらでも指摘できる。言語において、文法と対峙するような表現の努力などありえない。そもそも文法という枠組みを一歩でもはみ出したら、表現自体が成り立たなくなるものだ。

そもそも絵巻に「文法」というものがあるものか。あるいは、今日の研究者、鑑賞者としては、それをあくまでも一つの比喩的な道具として、その時その場の関心のために定義を施して用いて済むようなものだろうか。絵という表現形態を理解するための強力な可能性が含まれているからこそ、つい立ち戻ってくる課題である。(絵:『蒙古襲来絵詞』中巻より)