2009年3月14日土曜日

邯鄲の夢

夢の話となれば、謡曲「邯鄲」のことがすぐ思いに浮かんでくる。あれは美しい夢を溢れんばかりの美辞麗句と、優雅な舞をもって語ったものだ。豪華な宮殿、四季の移り変わりを一目で見渡せる奇跡、そして皇位まで勧められた運命、それこそ第一級の夢物語だった。

邯鄲とは、いうまでもなく紀元前の中国の戦国時代に遡れる地名であり、その邯鄲の地に奇妙な枕にしばし頭を任せて見た夢は、科挙の試験やら、外敵を懲らした戦功やら、内容こそ違うが、その枠組みが遠く唐の時代の説話においてすでに形が出来上がっていた。しかも邯鄲という地は、現在でも同じ地名のままだ。いまやその土地を訪ねれば、観光を目的とする古い建築群が存在し、多数の石碑などに囲みながら、「盧生祠」「黄梁店」など古風の建物がぴかぴかの扁額を掲げている。おまけに、夢を見た盧生という一人の男だけではどうも寂しいといったような思いも働いたのだろうか、そのかれに枕を授けた老人まできちんと名前を明かしてくれて、それは中国歴史上名高い道士の一人呂洞賓だったということになる。

だが、夢とは、すべて美しいものに限ると思えばあまい。ことはこの邯鄲の夢であっても例外ではない。それを教えてくれたのは、古典演劇ということでつねに謡曲の比較対象とされた元時代の雑劇をすぐ挙げられるだろう。雑劇の代表作者の一人馬致遠の手による作品には「邯鄲道省悟黄粱夢」との一篇があり、まさに邯鄲の夢を描いたものだった。夢を通じて、悟りの道を示されたというストーリの大筋は、一通り同じだが、しかしながら夢の内容はまるっきり対極なもので、美夢どころか、言葉通りの悪夢だった。そこでは、夢を見た人、すなわち悟りを必要としたのは、道士になる前の呂洞賓だった。かれの夢の前半は、同じ栄華を辿ったものであって、舞台に表現されることもなく飛ばされた。だが、夢の後半では、呂が数々の苦難や恥辱を嘗め尽くされた。豊かな会話や鮮やかな人物像を通じて演じられたのは、前後して酒、金、女性、家族といったすべての縁を切らされた数々のエピソードだった。その結果、かれは不本意ながらも、この世を捨てて出家遁世する用意をすべて夢の中で整える結果となった。

いつの時代においても、人間はいい夢を手に入れようと願う。ただし、どのような理想的な夢を手に入れたとしても、それを自慢するとはあまり聞かない。それどころか、いい夢そのものをどう対処すべきか、そもそも一様の答えがあるはずがない。夢から悟りを求めるというは、一つの答えに過ぎない。まったく同じストーリの筋道を辿りながら、芥川龍之介は小説『邯鄲』において、まったく逆の、「夢だから、なお生きたいのです」という主張を語った。納得できるものではなかろうか。

謡曲「邯鄲」は、能面「邯鄲男」を用いる。ただしこの面からは、美しい夢に酔いしれた陶酔、人生のすべてを体験した満足、あるいはあらゆる悩みを切り捨てた悟りを見出す自信などとても持てないのは、私一人だけだろうか。

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