2009年3月28日土曜日

絵に詩を読む

今週の講義のテーマは、中国絵画である。十一世紀、北宋の絵師李公麟を取り上げた。

李公麟とは、数ある絵師の中でも間違いなく第一級のグループに入る人間だった。世に伝わる絵の作品もさることながら、考えようによれば、実際の絵作以上に、伝説や逸話の多かった。中では、彼の絵を通じて、広く絵の読みかた、鑑賞の仕方にかかわる中国古来の文化人たちの心の動きや価値観を覗かせてくれるような、じつに味わい深いものがあった。

たとえばつぎのようなことが『宣和画譜」(卷七)に記されている。

蓋深得杜甫作詩体制而移於画。如甫作「縛鶏行」不在鶏虫之得失,乃在於注目寒江倚山閣之時。公麟畫陶潛「帰去来兮図」,不在於田園松菊,乃在於臨清流處。甫作「茅屋爲秋風所拔歌」,雖衾破屋漏非所恤,而欲大庇天下寒士倶歓。顔公麟作「陽関図」,以離别惨恨為人之常情,而設釣者於水浜,忘形塊坐,哀楽不関其意。

意訳すれば、ほぼつぎの通りだ。

(李公麟は)杜甫が用いた詩の詠み方を体得して、それを自分の絵に取り入れた。例をあげて見てみよう。杜甫の「縛鶏行」は、鶏や虫のあり様よりも、孤亭に身を置き、尽きない流れに目を向ける時を詠む。同じく李公麟の陶淵明を主人公とする「帰去来兮図」は、田園の松や菊ではなく、清い渓流に望むところを描く。杜甫の「茅屋歌」は、雨で布団がずたずたになり、雨漏りした家が使えないでいながらも、世の中のすべての人が共に憂えないで喜ぶことを願い、李公麟の「陽関図」は、離別や怨恨の情を傍らに押して、水辺で釣りの人を設ける。その姿は、まさに我を忘れて、人間のすべての哀楽には関わりを持たないという風貌なのだ。

絵と詩とは共通している。絵を見るためには詩を理解する、詩を楽しむ、詩を嗜むぐらいの教養がなければ適えられない。素晴らしい詩は絵を見るものであり、上等な絵は詩を聞くものである。などなど、中国の絵を鑑賞するにあたってのレトリックは、書ききれないほどあった。だが、その多くは、どうしても捉えようのないリズムや雰囲気といった、抽象的な議論に終始して、はなはだ主観的なものになりがちだ。それに比べて、ここでの議論は、いかにも簡潔にして分かりやすい。詩の詠み方を取り入れたと言っても、あくまでもなにを描くかという、描く対象に尽きる。

もともと以上の議論は、つぎの一言で結ばれる。「唯覧者得之(ただ絵を観覧する者が意得するのみ)」。李公麟の、あるいは他の有名無名の絵師たちの絵を読み解くということは、突き詰めて言えば、あくまでも読む人の器量にかかるものだ。一つの画論としては、いかにも謙虚にして含蓄した記述であって、しかも後世の読者たちへのなにげない挑戦だったと感じてならない。

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