2014年8月24日日曜日

DH再考

20140823週末にかけて、誘われてゲームをテーマとする学会に出かけてきた。とくべつに研究に打ち込んだわけでもないのに、ともかく発表に名前を入れてもらって、わずかな時間だがみんなの前に立った。あとは、あくまでも関心をもつものに耳を欹て、知恵を集合した作品を眺めていた。ためになるものには数多く出会った。中でもDHという言葉をめぐる議論がとても印象的だった。

この話題を持ち出したのは、複数招待された基調講演の方々の一人だった。DHという言葉をタイトルに現れたのだから、どのようなアプローチが取られるものかと、興味津津だった。実際の話が始まると、カナダ風の鳥鴨ローストだの、ロシアドールだの、聞く人を楽しませるひっかけはいっぱい用意していて、中身は新たに作られた研究所の苦労話や驚異な成果の宣伝などが中心で、結論になってようやくDHが飛び出した。一方では、講演者の所属大学はたしかにDHのプログラムを提供している数すくない機関の一つだ。いささか妙に思い、さっそく質問に立って、DHということをわざと避けたのではないかと、その理由をやんわりと訪ねた。しかしながら、その答えは、率直でいて鋭い。いわく、DHという言葉は、学者受けが良くて、研究者同士、ひいては教育機関の運営者からすれば魅力的なものだ。しかしながら、いったん社会に向き変えると、受け止め方はまったく異なる。そもそも人文学という言葉からその意味するところを説明してあげなければならない。そこで、そうと分かったら、その対応はまさに鮮やか。大学や研究助成の申請などには、DHを前面に持ち出すが、一般社会に向けて、違う言葉を選ぶ。そして講演者の場合、それはゲーム研究・開発というものなのだ。

言葉をいじるということの強烈なぐらいの実例だ。言葉の本質は、聞く人との交流にある。そのために、聞く人の関心を見抜き、それに応じて発信するということは、まさに言葉選びのイロハにほかならない。分かりきったことだが、あらためて知らされた思いだった。

Replaying Japan 2014

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