2021年12月18日土曜日

句読点

江戸時代には、『徒然草』が愛読され、数多くの刊本が刊行された。いまは、たとえば「日本古典籍総合データベース」に収録されたデジタル底本だけでも、数百点に上る。それらを並べて読み比べると、文章の表記に気づかされることが多い。

一例として、寛文八年刊のこの一点を開いてみよう。(書誌ID:200015378)原文は、漢字の数がきわめて限られ、九割程度は仮名書きの文章となる。そして、目を凝らしてみれば、行の右側に円い点が慎重に添えられている。第九段の場合、最初の数行はつぎのような内容だ(上巻三オ)。

女はかみのめでたからんこそ.人のめたつべかめれ.人のほど心ばへなどは.物いひたるけはひにこそ.物ごしにもしらるれ.ことにふれてうちあるさまにも.人の心をまどはし.すべて女のうちとけたる.いもねず身をおしとも思ひたらず.たゆべくもあらぬわざ

声を出して読めばすぐ分かるように、これらの円い点は、まさに句読点なのだ。一つのセンテンスが終わるところだけではなく、「などは」、「さまにも」など、現代の表記においても句点を付けるか付けないか一致しない場合でも小まめに付けられている。黙読ではなく、声を出して音読するために行き届いた配慮を見せた底本だと考えてよかろう。(朗読動画『徒然草』第九段参照)

どこかの言語学の本を読んで覚えたのだが、英語などのヨーロッパの言語歴史において、表記にスペースが入ったのが大きな発明だった。その論に沿って日本語を語れば、現代の表記においての切れ目は、漢字と仮名が交じり合うことによって実現されている。その分、漢字をほとんど用いない仮名表記の文章は、どうしても読むに神経を使う。そのような苦労を減らすためにここに見られる円い点が用いられたのだろう。まさに英語におけるスペースと同じぐらいの発明だと捉えたい。

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