2007年12月22日土曜日

検索の愉しみ

いまや漠然としたテーマを思いついたら、インターネットでとにかくサーチを掛けてみるというのが、だんだん形をもつ愉しみとなった。さほど期待していなくても、そこにはほぼ確実に意外な発見が用意されており、ここまで情報が纏められているものかと、つねに驚きと喜びを伴う感慨を覚える。

サーチするには、あれこれとやり方やコツがある。手始めにその入り口として大半の人はグーグルを使うのではなかろうか。例えば、「酒呑童子」という言葉を入れてみる。現在のところ、10万以上のヒットが戻ってくる。これでは使いものにならない。つぎはあれこれと試行錯誤の連続だ。「酒呑童子 -酒造」といったように、まずは関係のない酒工場を除いたら9万点となる。あるいは「酒呑童子 公開」、「酒呑童子 画像」といったように制限を加えてみれば、ヒットは1万台となる。いうまでもなくこのようなサーチでは常に大事な情報を見落とす危険がある。どこかの酒メーカーが文化事業として貴重な画像を公開している可能性もあれば、古典画像を思いもよらない斬新なタイトルで披露する機関も想像できる。いわば、検索とはあくまでも情報を拾うための試みであり、これで関係するものをモーラできるとは思わないことが基本だろう。

このような作業では、関係する情報を丁寧に集めてくれた人の成果を敏感に捉え、それを反芻することが大事だ。これだけ情報発信が発達してしまえば、情報に溺れやすいという危惧が共有され、その分、上手に泳ぎ渡り、その経験を提供してくれる人がどの分野においてもいる。それらの成果をまず十分に吸収しなければならない。御伽草子画像公開の情報については、とりわけつぎの二つのサイトを紹介したい。一方では、いくら丁寧に集められたものでも、すべてをモーラすることを目標としない、あるいはいろいろや制約で出来ないでいる。例えば、同じ性格の豊富な画像資料を早くから公開している東京国立博物館のデータベースは上記の両方とも触れていない。

電子メディアのことをめぐり四回連続して書いてみた。これを考えさせてくれた木曜日の一回だけの講義も無事終了した。そのクラスは、終了してから聴講した学生が全員その場で一枚のレポートを提出することになっている。寄せられた丁寧なレポートを読むのは、講義した人の愉しみだった。学生諸君に感謝すると同時に、とりわけ古典を志向する人とインターネットとの距離、さらに言えば、電子情報への期待感、信頼感の低さが分かって、わたしにはむしろいささか意外だったことを記しておこう。

リンク集デジタル奈良絵本(藤原重雄氏)
和書画像の公開者と画像の所在(内田氏)
東京国立博物館・カラーフィルム検索
ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版
(岡本真氏が文科系研究者のためのリソースを
リアルタイムにレポートする。)

2007年12月18日火曜日

全文検索が可能か

前回の話題に続き、御伽草子の「全文検索」を考えみたい。結論から言えば、この謳い文句を顔面通りに実現できるまでには、かなりの道のりがあるものだと思う。

検索とは、意中の言葉から出発して、特定の資料群から用例を見出すことを言う。これは、たとえば現在の新聞記事や小説などを対象に、地名、人名や語彙を探すとなれば、とても分かりやすい。しかしながら、対象が御伽草子となれば、事がいっぺんに難しくなる。まずここには文字の違いということが横たわる。いうまでもなくオリジナル御伽草子は、いわゆる変体仮名によって記されている。

変体仮名と今日の仮名との違いはどこにあるのだろうか。すぐ浮かんでくる答えは、変体仮名のあの、書写する人の勢いや筆遣いなどによる、さまざまな文字の形かもしれない。しかしながら、両者の根本的な差は、一つの音節をいくつの文字で表わすかにある。現在の仮名は、あくまでも一つの音節には一つの文字、対して変体仮名の場合、たいてい二つ以上の、時には十近くの文字が当てられる。それもあくまでも音を表現するものであり、意味による使い分けなど認められない。分かりやすい例を挙げてみよう。右の図(白百合女子大学所蔵『伊吹山酒顛童子絵巻』より)に、「酒呑童子」のことを「しゅてんたうし」と書く。「し」は「志」「之」という二つの字体をもつ。

古典文学研究の第一歩は、したがってまずこの変体仮名によって書写された文章を現代の文字表記に置き換えることから始まる。いわゆる翻字あるいは翻刻という作業だ。簡単に想像がつくように、一対一という置き換えでは済まない。加えるに、文字遣いという問題が絡んでくる。今の例では、まず「しゅてんたうし」「しゅてんとうし」「しゅてんどうじ」といういくつかの可能性が出てくる。しかもたとえ最後の案でも、仮名のみの文章でけっして良くやすくなく、漢字を当てることが望まれるようになる。そうなれば、「酒呑童子」か「酒飲童子」なのか、違うレベルの考察や考慮によって決めなければならない。もちろん一つの方針を取るということは、同等に可能な表記を切り捨てることを意味する。

そこで、御伽草子の検索とはなにを対象としたら良かろうか。古典の画像を持ってきてもおそらく意味がない。第一、検索の出発点としてのキーワード入力が難しい。現代表記の言葉を用い、一つのキーワードに対して、上記すべての可能性のものを対象として検索するということは、不可能ではないが、どのような構造のデータベースが必要となるだろうか。しかも場合によっては、以上の文字の違いこそ大事で、それを対象とする検索にも対応すべきだとのことも忘れてはならない。

御伽草子についての研究は、いまだ一世紀も満たない。かなりの成果が積み重なっているが、それでもすべて作品が翻刻されるまでにはとても到達していない。その翻刻は、これからも自動生成ではなくて、人間の手によって一字一字と行われていくことだろう。その成果が、「全文検索」とすぐにでも直結してもらいたいというのは、研究者ならだれもが願っていることに違いない。それがはたしてどのような道のりを経るのだろうか、一人ひとりの研究者としてなにができるのか、真剣に考えたいテーマである。

なお、電子メディアについて三回ほど書いた。つぎもこの話題にしたい。このことを考えさせてくれたのは、明日に予定されているある大学授業でのゲスト講義だ。そのタイトルも「マルチメディアと絵巻」と予告した。

白百合女子大学所蔵貴重書『画像』データベース

2007年12月16日日曜日

デジタル情報の担い手

デジタル情報の担い手は、はたしてだれなのだろうか。

それは、どうやらこれまでに文化の発信と貯蓄を一身に背負った出版関係の組織ではなさそうだ。考えるに、出版の活動を大きく選定、編集、印刷、発行と捉えるならば、その中で大きな比重を占めるのは後の二つ、すなわち物理的な要素をもつ役割だったと言えよう。対して、デジタル情報の発信は、かなり違う特徴を持つ。あえて言えば、選定、編集というプロセスこそ共通するが、印刷も発行もほぼ不要になる。だが、これらの機能は出版社にとって簡単に切り離せるものではないだけに、この現状にはすぐ変化が訪れないことだろう。

いまのところ、担い手の最近距離にあるのは、大学や公立の図書館だ。すでに公開されている古典作品の画像も、ほぼすべてこれらの機関から提供されている。

しかしながら、図書館に取っても、デジタル情報の提供とは、これまでの図書情報の管理、提供からすればまったく新らしい業務である。明らかなことに、図書館には選定、編集の役目を持たない。それよりも、編集されたものを分かりやすく整理し、使いやすいように提供することを役目とする。したがってデジタル情報に取り掛かるためには、違う方針と特別な作業チームが必要となる。

このことは、これまでに公開されているデジタル情報のありかたにもはっきりと現われている。すなわち、たいへん貴重なデジタル情報を提供していながら、それをなんのために提供しているのか、図書館という役目には沿っているかどうかということに、曖昧なままに続いていることが読み取れる。端的な例を挙げるならば、つぎの二つが指摘できよう。せっかく公開した資料は、満足に読めないぐらい小さなサイズのものにする。かなりの規模のものを公開していながら、それが読者の画面には簡単に表示できないようにと、意図的に制限を掛ける。このような処置は、情報の質を落とすということに他ならず、公開そのものはあくまでも試運転の状態のものだとの意思表明に違いない。現にこれらの情報公開をいつまでも続けるとの前提を設けない。出版の場合の、一度出したら永遠に変わらないで残るという使命を自ら取らない立場にある。

なお、日本の学術の環境では、図書館以外に、さまざまな資料を収集し、フィルムなどの形でこれを保存して、読者の閲覧に提供するという公的な機関が存在する。原則としては、上記の出版と図書館の中間に位置するもので、デジタル情報の作成と提供がその仕事の範囲にはるべきなのだが、これまでには積極的な参加が見られない。

このような環境の中で、デジタル情報の提供が実現できないのだろうか。いまの情報社会の発展はどうやらそのような結果を許さないらしい。北米や中国の場合、学術雑誌やアーカイブの資料はデジタルにて図書館などを通じて読者に提供されていて、研究者や大学生はすでにその恩恵を受けている。いうまでもなく提供者と大学図書館の間では、商業活動の形を取る。その目で見れば、日本だって圏外に置かれるはずがない。それのもっとも端的な動きは、グーグルと慶応大学図書館との共同作業だろう。そして、そのキャッチフレーズは、まさに「「御伽草子」も全文検索」といった、衝撃的なものだった。

因みに、古典資料だけで言えば、資料自体の著作権の問題は存在しない。これをデジタル化するという作業への権利はもちろん生じるだろう。だがこれまでの議論では、デジタル権利の主張や対応はあまり注目されていない。むしろ、これまでのデジタル情報の公開者からは「公開されたものが悪用されはしないか」との心配はよく聞かれる。ただし、現在のところ、そのような心配にあたるような実例はさほど報告されていない。

CNET Japan ニュース:Google、ブック検索で慶応義塾大学図書館と連携--図書館はアジアで初の参加
ITmedia ニュース:「御伽草子」も全文検索――Googleブック検索に慶大が参加

2007年12月12日水曜日

ウェブに御伽草子の画像を

いまやマルチメディアとはまさに時代の寵児だ。インターネットというかつてない通信手段は、まるで生命の水のように社会生活のあらゆる分野を縦横無断に流れ、人間の記録と交流のありかたを変貌させる。一方では、絵巻という古来の美術、文学の媒体は、その本質においてはなはだマルチ的なメディアだった。物語を文字と絵という二つの形態で記し、その文字をだれかに読み上げてもらいながら絵を目で追っていくことを享受の王道とする絵巻は、まさに音声、画像、文字といったメディアをフルに生かし、それの合成やハーモニーを楽しむ表現の手段だった。

そして、絵巻とマルチメディアが出会う。

性格がまったく異なるこの二つのメディアが交流しはじめると、どれだけの可能性が生まれることだろうか。それを一つひとつ数えてあげると、無限なような感じさえする。だが、すべてのことはすこしずつ展開するものだ。無限な可能性でも、いっぺんに実現するはずがなく、むしろ単純な作業を確実に始めなければ、物事は始まらない。

例えば、御伽草子の作品を全点の内容をウェブページに公開すること。

これを説明するには、やや絵巻の「研究史」を触れなければならない。そもそも絵巻の研究がこれだけさかんになったのは、いまから三十年ほどまえに刊行された『日本絵巻大成』に負うところが大きい。それまで美術館などに行って、特別な手配をしてもわらなければまずその全容が分からない絵巻は、フルサイズ、フルカラーで出版されて、読者がさまざまな角度や視線でそれを眺めることが可能となった。さらに同じ出版社は、同じ写真を使って、廉価版、縮小版と違うスタイルのシリーズを出して、これの普及にはいっそう拍車をかけた。一巻の巻物が知られるようにするためには、まずはそれを読者の手元に届けられるようにしておかなければならないと、実に単純な事実だった。

絵巻への関心の目は、やがて16、17世紀の後になってもなお作り続けられた作品、そしてそれらの作品と平行する御伽草子に向けられる。だが、ここでやや事情が違ってくる。13、14世紀の、いわゆる一流の絵巻の作品に比べて、これらのものは、まずは比較的新しい。それに加えて、製作技術の進歩により、同じ作品が複数に作られたとのケースが多く、その分「美術的な価値」が劣る。おまけに現存する作品の点数は多く、現代の出版の事情は厳しくなる。これらのもろもろの要素を数えてあげると、あの絵巻のシリーズのように一群の御伽草子が写真版となって読者の手に届けられることは、まずは考えられない。所蔵者のところに足を運ばせて特別な配慮をしてもらわないと作品の全容が見えないとの事情は変わらない。

そこで、インターネットにて御伽草子の画像を求めることが可能となった。

結論から言えば、現在インターネットでは、すでにかなりの分量の御伽草子の画像が公開されている。最近、興味があって調べてみると、大学や公立の研究機関、美術館などを中心に、すでに約15000枚の画像が公開されている。しかもこの数はいまだ増え続けている。公開の機関が各自違う方針でやっていることで、スタイルも目的もまちまちで、縦横に検索することもけっして簡単ではない。第一、画像のサイズがそれぞれ違って、多くのところではわざと小さいものを置くという方針を選ぶ。しかしながら、それでも普通の出版物で掲載された写真には劣らない読みやすさだ。言ってみれば、インターネットのお陰でもう一つの資料群が身近な存在となった。これからは、御伽草子の研究を始めようとしたら、まずはオンラインの資料群を活用しなければならないというのが、新たな常識になったと言いたい。

この話題は、もうすこし続けてみたい。

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