2014年8月16日土曜日

アプリを求めて

のんびりした時間が続いたら、ときどき思い出したように身の回りのガジェットをいじってみる。なにかの作業のツールを探し求めるというのは、一種のリラックスした時間の過ごし方である。この間、アンドロイド携帯用の、写真をスライトショーにするものをと、狙いを定めた。どうせすぐにでも見つけられるだろうと睨んだが、意外と苦労した。

とりあえずまずはグーグル・ストアから始めた。写真などのキーワードを入れたら、たしかにかなりの数のものが飛び出してきた。かたっぱしから二、三個、ダウンロードしては試し、予想が外れたらさっさと削除する、こういうプロセスを結構繰り返した。なかなか思う通りのものが現われてこない。そもそもシステムに組み入れられた写真閲覧のアプリには、スライドショーの機能が付いるが、スライドのスピードも含めていっさいオプションが用意されていない。そこであれこれとアプリを試したら、写真のスライトショーという、こんなに基本的で単純なものであっても、アプリによって対応がまちまちだと気づいて唖然とした。中には、スライドはしてくれるが、写真のサイズがすべて変形されてしまったり、写真を選んだらまとめてかなりのサイズの動画ファイルを生成したり、あるいは一枚一枚の写真につき見せる時間を聞いてくれたりして、信じられないくらい面倒で、使いものにはならない。ここでようやく方針変換をし、アプリレビューサイトにアクセスすることにしました。他人が書いた使用感想などを読み比べて、やっと使えるものに辿20140816り着いた。事実、スライドショーのみに止まらず、オンラインとローカルを写真を管理したり、ひと続きのファイルをまとめて処理できたりすることから、これまで使っていたシステム付属のアプリを不要のリストに取り下げたくらいだった。ちなみに、気に入ったアプリとは、「QuickPic」という名前だ。

期待したものを満足に手に入れて、ほっとした。そこで、よく纏めてくれているレビューのサイトについては、その名前さえ覚えていないことに気づいた。あんなに熱心してまとめてくれた情報、そして何よりも無料で使えるアプリ、使いものにはならないのも含めて、作者たちはどれだけの時間と知恵を注ぎ込んだのだろうか。ただただありがたい。そして、かれらにとっての名もないユーザーとして、はたしてどうやって感謝の気持ちを伝えるべきだろうか。

2014年8月10日日曜日

巨大な碁盤

学生時代から、舞台劇を観るのがを愉しみの一つにしている。舞台上に立つ俳優たちの演技力や、ドラマの進行などとともに、限られた空間、そしていつもは限られた予算によって限定された大道具の出来栄えやその使用の仕方にも注意を奪われる。それがたとえちゃちで、見え透いたものであっても、ときにはそうであるほど、魅力を覚えてしまう。

絵巻の画面を眺めていて、ときどきそのような舞台の大道具と錯覚する。言い換えれば、空間や情況の設定に合わせ、背景となる建物や家財道具の類は、それがそうなのだと分かるぐらいで十分で、それ以上の配慮を与える余裕などとてもなくて、まるで舞台装置そっくりの役目しか担わされていない。た20140810とえば、右の画面がよい実例だ。「慕帰絵」に描かれる鎌倉の唯善房の屋敷である。画面の中で異様に存在感のあるのは、巨大な碁盤である。近くの人間、そして置かれている床の畳まで意識して見つめるほどに、妙なものだ。そういえば、品物のサイズには、まったく無頓着、しかもそれは一点のものに限らず、周りの物体や建物全体にかかわる。描かれた人間を基準にすれば、それらは異常に大きかったり、小さかったりする。もともとそのような観察は、現代の写真などを見慣れた視線のもとに現れた感覚にほかならない。

ただし、舞台装置なら、たいてい必要最小限のものに限る。そう考えれば、巨大な碁盤は、まったく逆の、不必要でかつ最大限のものに映る。この違いをどう解釈すべきだろうか。詞書には登場しない、ストーリと必然性を持たない碁盤は、はたして何のメッセージを訴えようとしているのだろうか。答えが見いだせないままでいる。

2014年8月2日土曜日

胸を裸ける女

20140802絵巻には、ときどき奇妙で、今日ではちょっと考えづらい、どう受け止めてよいのか戸惑うような場面が描かれる。その一つには、性別に関わるものがあげられよう。たとえば『一遍聖絵』に収められている右の一コマだ。

全国を雲遊する一遍の足あとは、いうまでもなく聖地や名山に及ぶ。ただ、かれの伝説的な生涯を伝える伝記は、そのような名勝の地に過剰なレスペクトを抱き、きわめてステレオ的な視線で捉えている。一方では、これを丁寧にビジュアル表現する絵巻になると、たいていのところを一様に右へと展開していく建物群をもって表現している。そのなかで、ここでの画像はあの当麻寺の門前に繰り広げられた風景の一つである。寺もほど近くなり、群衆の一群は寺を目指して道を急ぐ。かれらの身の上のことを詞書が何一つ触れることなく、出で立ちも仕草も一遍の遊行との関連においてとくべつな必然性が見られない。その中で、ここに見られるような大ぴらに胸を裸けた女性の姿が登場した。身に纏っている服装のあるべき効用をあきらかに無視し、しかもなにかの極限の情況で身なりに気を配る余裕がないとかのような設定でもなく、画面が表現しようとする意図はなかなか簡単に読みきれない。はたして女性はどうしてこのような格好をしなければならないのだろうか、これを周りの人々、それから絵巻が作成された当時の読者たちがどのように受け止めていたのか、正直さっぱり見当がつかない。

あるいは確実に言えることは、このような格好や身なりは、今日にいう色気とはさほど関係ないということぐらいだろう。当時の平均的な読者たちは、色気というものをきっとこのような構図ではなくて、まったくべつのところに求めていたに違いない。答えが見いだせないままだが、このことが確認できて、時代によって読む人の常識も異なることに気づかされただけで、まずは有意義だとしよう。

2014年7月26日土曜日

手習い・絵描き

中世の随筆などを読めば、時にははっとさせられる記述に出会う。素っ気もない簡単で単純な文字でも、考えるほどにそこから伝わるその時代の常識に心を打たれる。

たとえばあの「徒然草」の中の一節である。「しづかに思へば、よろづに過にしかたの恋しさのみぞせんかたなき」と始まる三十三段。兼好は身辺の整理をし、過去のものを取り出し、破り捨ていくという、今ふうに言えば、かれ一流の「断捨離」の達人ぶりを発揮するあたりである。そこで、つぎの一行が目に飛び込んできた。「亡き人の手ならひ、絵かきすさびたる見出たるこそ、ただその折の心地すれ。」思わず立ち止まり、ひとまず兼好の文脈からこの一文を切り離し、ここに読み取れる絵というものへの認識をあれこれと考えめぐらした。手習いと絵描きとを並べたところからにして、文字と絵との並列関係が明らかだ。それのみならず、描くこと、習うこと、描くことが並べられているところからすれば、いずれも平等でいて、かつ相互に交換できるものだと捉えてよかろう。すなわち文字を書きながら覚えているのと同じく、絵も同じく描きながら上達していたものだった。そのようなプロセスの結果として残された文字と絵は、時間が経つに連れ古び、そしてそれが特定の人、時と場に繋がっていたからこそ、見る人の思いを呼び起こすものだった。さらに、文字は、たとえ手紙のような実用的なものではなくてただの名筆の臨書だったにしても、何を選んだかによって情況が異なり、絵の場合となると、目の前の人物、植物や建物を描いたのならば、そのまま今日の写真の役目を果たす。ビジュアル情報を記録する媒体がきわめて限られていただけに、そのような絵がどんなに幼稚でいて、不完全であっても、想像を誘い、イメージを再現させるためには大きなインパクトを持っていたことなど、簡単に想像できるものだろう。

古典の絵と対面する場合、どうしても仰ぎ見るような神聖な気持ちを視線に含ませる。それ自体は当たり前だとしても、多くの絵はさまざまな身近なプロセスを経て生まれたものだと忘れないことも、これまた同じく大切なことだとあらためて教わった。