2014年7月26日土曜日

手習い・絵描き

中世の随筆などを読めば、時にははっとさせられる記述に出会う。素っ気もない簡単で単純な文字でも、考えるほどにそこから伝わるその時代の常識に心を打たれる。

たとえばあの「徒然草」の中の一節である。「しづかに思へば、よろづに過にしかたの恋しさのみぞせんかたなき」と始まる三十三段。兼好は身辺の整理をし、過去のものを取り出し、破り捨ていくという、今ふうに言えば、かれ一流の「断捨離」の達人ぶりを発揮するあたりである。そこで、つぎの一行が目に飛び込んできた。「亡き人の手ならひ、絵かきすさびたる見出たるこそ、ただその折の心地すれ。」思わず立ち止まり、ひとまず兼好の文脈からこの一文を切り離し、ここに読み取れる絵というものへの認識をあれこれと考えめぐらした。手習いと絵描きとを並べたところからにして、文字と絵との並列関係が明らかだ。それのみならず、描くこと、習うこと、描くことが並べられているところからすれば、いずれも平等でいて、かつ相互に交換できるものだと捉えてよかろう。すなわち文字を書きながら覚えているのと同じく、絵も同じく描きながら上達していたものだった。そのようなプロセスの結果として残された文字と絵は、時間が経つに連れ古び、そしてそれが特定の人、時と場に繋がっていたからこそ、見る人の思いを呼び起こすものだった。さらに、文字は、たとえ手紙のような実用的なものではなくてただの名筆の臨書だったにしても、何を選んだかによって情況が異なり、絵の場合となると、目の前の人物、植物や建物を描いたのならば、そのまま今日の写真の役目を果たす。ビジュアル情報を記録する媒体がきわめて限られていただけに、そのような絵がどんなに幼稚でいて、不完全であっても、想像を誘い、イメージを再現させるためには大きなインパクトを持っていたことなど、簡単に想像できるものだろう。

古典の絵と対面する場合、どうしても仰ぎ見るような神聖な気持ちを視線に含ませる。それ自体は当たり前だとしても、多くの絵はさまざまな身近なプロセスを経て生まれたものだと忘れないことも、これまた同じく大切なことだとあらためて教わった。

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