2008年2月27日水曜日

日本義民之鑑

手元に一枚の美しい刷り物がある。タイトルは「日本義民之鑑」。作者や制作の時間などの情報は一切記されておらず、絵の内容やスタイルなどから、恐らく明治に入ってからの作品だと思われる。三十の枡形に等分された一面は、それぞれ要領の良い説明を添えて三十の伝説のエピソードあるいは名勝旧跡を描く。

ここにいう「義民」とは、江戸初期の伝説な人物木内宗吾、通称佐倉惣五郎である。民衆の苦しい生活を変えようと、かれは江戸の将軍に直訴し、やがて一家六人全員死刑に処せられる。宗吾、そしてその叔父の光全和尚の霊の祟りにより領主堀田正信が発狂し、堀田家が断絶してしまう。「義民」という名の英雄像は、いかにも江戸から社会の風潮、そして民衆の精神のありかたの一面を映し出す。

刷り物の三十の場面には、例えば右のような一齣を含む。佐倉惣五郎伝説の名場面の一つであり、説明の文章はつぎの通りである。「妻は悲しみ子は叫ぶ。宗吾の心果たして奈何の情をされど、身命を堵して生民を途炭の苦より救はんとす。」

木内宗吾の伝説は、さまざまな形で語り継がれてきた。中でも、とりわけ実録文芸『地蔵堂通夜物語』、歌舞伎・浄瑠璃『佐倉義民伝』が有名だ。豊国の浮世絵には、「仏頂寺寺光ぜん霊」という画題の作品が数点伝わり、民衆の関心のありかたが伺える。それに対して、この明治の刷り物には、宗吾や光全の墓を訪れる人々の中には洋服の学生まで登場し、時代の様変わりが余計に印象付けられる。

一枚の刷り物に枡形で数々の場面を描きこむことは、いわゆる双六というスタイルである。ただしこの作品には番号も振っていなければ「上がり」もない。それにより、双六というスタイルがもつ叙事的な特性をむしろ確認できるような思いがした。一方では、一つの画面に絵と文字でストーリーを伝えるというのは、あくまでも絵巻の叙事方法の延長だが、しかしながら、目の前の刷り物の絵の構図は、その一つひとつとして、むしろ舞台劇を覗いた錯覚に陥らせるものだった。

2008年2月23日土曜日

巻物の変身

先日、「巻物の日記」(2月3日)を書いて、本心とても適えられそうもないと諦めつつ、軽い気持ちで「本人の思いを聞きたいものだ」と結んだ。しかしながら、読書を進めていくうちに、「本人」ではないが、なんと答えが現われてきたんだ。単純でいて、しかし自分の想像にはまったく浮かばなかっただけに、いささか衝撃を受けた。

なんのことはない。巻物という形態は、もともと冊子という装丁と隣り合わせのものだった。右の図(『日本史用語大辞典』より)が示しているように、巻物を披いた状態で、繰り返し折りたたんだら、そのままりっぱな冊子に変身する。そうしておいたら、冊子本がもっている「飛ばし読み」に対応する特徴などがすべて保証され、しかも必要があれば、巻き上げて一瞬にして巻物に戻ってしまう。日記の研究者たちによれば、現存する日記、それも『名月記』『実隆公記』といった広く知られているもののいくつかの巻には、折本に仕立てておいて筆記しはじめたもの、あるいは巻物で書き上げてしまってから必要に応じて折本に折った跡が鮮明に伝わっている。さらに、たとえば『実隆公記』の場合だと、記主の三条西実隆は、巻物、冊子、再び巻物と、記入するにあたって意識的に違う媒体を選んでいた。いわば媒体そのものが変身するのみならず、書く人も、さまざまな考慮から「変心」をしていたものだった。

今日のわれわれが推測する巻物の不便さを数百年前の古人たちもたしかに感じていたことを知って、なぜかほっとする思いだった。そして、その中で当時の人々があえて巻物を選んだことにはきっとそれなりの理由があったことも推測できる。同じく先学の説によれば、冊子本に較べて、巻物にはすくなくとも二つの利点があるとのことだ。一つは、当時の日記は関係の文書などの書類を纏めて保存するという役割があり、そのため、断片のものを日記に貼り付けるため、巻物ならそれらを巻き上げて保存するには最適だった。いま一つ、暦などに日記を記すにあたり、紙の裏をあわせて利用するという情況もあり、表と裏を合わせて使えるということは、これまた粘葉綴の冊子本に備わらない特徴だった。

書物の物理的な展開と屈折、尽きない想像を誘う。

2008年2月19日火曜日

地獄絵観賞記

短い数行の日記のことを記しておきたい。これを残してくれたのは、三条西実隆(1455~1537)という、室町後期の屈指の文化人である。

晩頭有召之間参候。□□、奈良霊物、以大般若経料紙、由託宣六百巻画図者殊勝之由有勅語、当時纔三十巻計相残る云々、拝□之、人間病苦之体、鬼界飢渇之憂、地獄苦痛之趣等、惑涙銘肝、更驚無常者也。深夜退出就寝。(『実隆公記』文明十年三月二十六日)

時は文明十年(1478)春のある日の夜である。後土御門天皇に呼び出されるまま、実隆は内裏に入り、きっとめずらしい出来事に違いないという絵巻の拝観が適えられ、それが一気に真夜中まで続いた。奈良からもたらされた絵巻の肝心のタイトルは、日記の損傷によるものだろうか、伝わっていない。ただ当初六百巻にもおよぶといわれるものがわずかに三十巻程度しか伝わっていないと記されている。五百年以上も経った今日からすれば、それだってずいぶんと分量の多い作品である。絵巻の内容を記して、実隆は「人間病苦の体、鬼界飢渇の憂、地獄苦痛の趣」と思わず美麗な漢文を持ち出す。そしてこれに続いて、かれ自身の打たれた思いを記して、「涙に惑い、肝に銘じ、更に無常に驚くものなり」と結ぶ。「惑涙」という表現は今日すでに使わないが、きっと「銘肝」と同じような重い意味合いが込められていたに違いない。

実隆に深い印象を与えたのは、いうまでもなく絵巻にある絵というよりも、まずはそこに描かれた内容だったのだろう。一方では、今日のわたしたちにこの日記がもつ真摯な思いを伝えてくれたのは、私的な記録にもかかわらず、思わず練りに練った表現に結晶したことが象徴しているように、実隆が受けた名状しがたい感慨は、まさに絵ならではの表現媒体がもたらしたインパクトに拠ったものではなかろうか。

文明十年とは、まさにあの応仁の乱がようやく終着を見せた年であり、十年の戦乱を経た京都の巷は、時の人々、とりわけ知識人たちにはきっと地獄を思わせただろう。その中でのこの短い観賞記は、読み返して、なまなましい。

2008年2月15日金曜日

王朝の恋

天気予報では、ずっと続いてきた冬の天気はようやく終わりが見え、これからは陽気な春が訪れてくるとのことである。気持ちの良い日差しの中を出かけて、出光美術館で開催中の「王朝の恋ー描かれた伊勢物語ー」を見てきた。

平日の午後にも関わらず、展覧会会場は大勢の人出で賑わっていた。丁寧な解説も理由となって、展示の前の列はとてもゆっくりと移動していた。おかげで、おもむろに作品を隅々まで眺める年配の方、興奮気味に語り合う若者、知人と挨拶する中年の学者、そういう観覧をする人々を観察する余裕にまでめぐまれた珍しい経験となった。

展覧会は、二つの作品(群)を眼目とした。一つは鎌倉時代に成立した『伊勢物語絵巻』、もう一つは俵屋宗達の『伊勢物語』の色紙。これに合わせて、嵯峨本の『伊勢物語』やそれと対照する御伽草子、物語の画面を組み合わせた屏風など、丁寧に選び抜かれた作品が並べられている。「東下り」「井筒」「芥川」など、物語の名場面が異なる表現媒体において描かれ、まるで豊かな音楽のように違う音色のメロディーを奏でる。展示ホールの真ん中に立ち、周りを見渡して、一つの古典のテーマが数百年の中でゆっくりだが、すこしずつ変容し、力強い流れを成して繰り広げられ、引き継がれてきた様相を絵画を通じて確認できて、まさに至福の時間だった。

会場には外国人の姿は見かけなかった。だが、展示の解説には英語の翻訳が多く見られ、しかも物語の世界には深く共鳴した労作だと分かる。一例を挙げれば、展覧のキーワードの一つには「恋の行方」が繰り返し用いられた。これに対して、「行方」を「course」だと訳された。なるほど王朝の恋を語るために、それを「結果」「結末」「果て」といったような意味合いの言葉なら、どれも納まりが悪い。「行方」との表現を、あくまでも恋の始まり、そのハイライトを現在進行形として捉えるものと理解したほうが理屈にあうことだろう。翻訳者の苦労が垣間見たような思いがした。

五週間にわたる展覧会は、今度の日曜日までで、あとはわずか二日だ。

王朝の恋―描かれた伊勢物語―