学生に作文を書かせたところ、スシをテーマにした一篇は、いささか極端な場面を映した動画を取り上げた。テレビ番組の一こまから、珍しい食を捜し求めるバラエティもので、その様子に衝撃を感じた視聴者が切り抜いて動画共有サイトにアップロードしたのだ。料理の一品として、その名は「泳ぐ骨」と呼んでいた。いわゆる生きた魚を捌いたもので、売りは、肉を下ろした魚を水槽に戻し、残された骨が泳ぎ続けるというものだった。
このようなことはいまだ実際に行われている、しかも笑いの種としてなにげなくテレビに顔を出しているにはいささか意外を感じた。というのは、狂言の中でこれについての描写をさっそく思い出したからだ。それは、刺身(狂言の語彙としては「打身」)の起源を語った「鱸庖丁」である。それによれば、名人の誉をもつ四官の太夫忠政という人物が花山天皇のために腕前を披露したのだった。その様子とは、「板なる鯉をば切らずして、簀の子の竹を一間外し、下なる魚を挟んでさし上げ、みさごのひれをばらりとおろし、魚を放」したというものである。包丁捌きが常人の域を超えていたことを、ほかでもなっく魚に命を残させたまま、その肉を盛り付けて美食にすることをもって表現した。
いまになれば、このような説話も、そしてこれをまともに実行する実践も日常の風景から遠ざかっているのは言うまでもない。それの理由といえば、ほかでもなく「魚の身にもなってみろ」といった発想ではなかろうか。はたして同じテレビ番組は、親切にも「魚には神経がない」云々と説明を付け加えた。一方では、そのような説明など最初から言葉として伝わらないさっきのサイトの英語の読者たちが残したコメントは、それこそ非難轟々、過激な言葉のオンパレードだった。しかしながら、同じ狂言の中では、魚に神経どころか感情まであったとし、その証拠に「魚は喜び、石菖の蔭に遊び隠れ」たのだと語られていた。もともと魚ではない人間には、魚の感じなど分かるはずがない。
泳ぐ骨
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