すでに二週間もまえのこととなった。大学に知名の学者を迎えて、忠臣蔵をテーマにする講演が行われた。講演は、歌舞伎と黄表紙という二つのメディアの交差から江戸の文化を読み解き、そして両者を繋げるスポットには忠臣蔵を据え付けるという、鮮やかなアプローチを取って展開してくれた。
改めて考えてみれば、黄表紙の作品群は、不思議な魅力を持っている。それの大きな特徴は、なんと言っても、絵の中に入り込んだ膨大な分量の文字だろう。今日の平均的な読者には、この文字情報は、まずは一つの壁となり、気軽な接近を拒んでいると言わざるをえない。しかしながら、想像するには、江戸の人々には、これら文字は、けっして負担でもなんでもなく、作品が身近なものとなるための前提であり、必須条件である。このようなスタイルの読み物の流行は、江戸の社会における識字率の高さを物語っていることには間違いがないが、そこは、仮名主体の文章ということがミソだろう。試して同時代の中国のことを思い出してみれば、老若男女に幅ひろく受け入れられるような、情報密度の濃い読み物は、いささか簡単には思い当たらない。
会場には、六十名を超える学生たちが集まり、けっして身近だとは言えないテーマを熱心に聞き入った。若者たちからの質問や書き残してくれたコメントなどからは、知的な刺激のほどがよく伝わっている。それから、講演のスタイルとして、浮世絵や黄表紙の絵をとにかく数多く、スクリーンいっぱいに出したから、視覚的なインパクトが大きかった。なにはともあれ、黄表紙とパロディという二つの言葉でも関心ある学生たちの記憶に植え付けることができれば、十分な収穫だと言えよう。
Chūshingura & the Edo Literary Imagination
2016年3月12日土曜日
黄表紙に読む忠臣蔵
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