2021年8月28日土曜日

前に数回取り上げた御伽草紙『猫のさうし』を現代語に置き換えようと、ここ数日もっぱらそれを読み返している。やはり面白い。大笑いをさせるわけではなく、言って見れば落語のようなもので、なんの変哲もない語りの中に、ふっと吹き出させる、妙に魅力ある文章である。

一方では、全文を現代語に、しかも学問的に一字一句をそのままというよりも、普通に読んで難なく伝わるとなると、ところどころ立ち留まって考えを巡らし、あれこれと文章を並べ替えさなければならない。笑いを狙ったものでも、表現の方法は、いわば確信犯的なものなら、その通りにして読者の感覚に訴えるほかはない。例えば、老僧が猫に鼠を喰って殺生するのを改めさせようと諭しながらも、代わりにご褒美に鰹、鯡、鮭を与えると提案した。それも生き物ではないかよと突っ込みたくなるが、翻訳としては発言を堪えざるをえない。

対して、中世の物語によく見られる定型文的な表現になると、すこしやっかいだ。一例として、涙。短い物語の中で、老僧への人々の視線、鼠の慙愧の気持ち、猫の弁舌への老僧の賛同などを伝えて、いずれも涙が登場した。どれも現代語になると、どうしても突飛で、感覚的に違和感が拭えない。はたして「涙」をキーワードとして残すのか、それとも「感心」「感動」「共感」などいまの文章として読みやすいものにすべきなのか、苦慮するところだった。

もう一つ考えられるのは、いわゆる超訳。古典を伝えるために頻繁に見られる試みなのだ。対応する言葉を充てるよりも、現代の事象などをもって原文を置き換えるといったものだ。ただ短い文章に向いても、一篇の物語を対象とすると、どうしても苦労が多い。そういった実践をもうすこし慎重に観察したい。

0 件のコメント: