神田で開催されている古本まつりに行ってきた。古書即売展、
青空掘り出し市、オークション。学生時代は京都百万遍寺で経験していた年に一度のあのわくわくした記憶は、すべてそっくりそのまま目の前に展開されていて、なんとも懐かしい。そして、古本を捜し求める人々がたいてい目をくれないところに、展覧会カタログは、所在なさそうにまとめて置かれている。
そもそも展覧会カタログは、出版物の中での特殊なジャンルと言わなければならない。作品を写真に納め、解説を要領よく施し、時には思いも着かないようなテーマを提示してくれる。それに加えて、想像に思い描いていた幻の名作が一度は公の場に出されたとのことで、なんとなく親近感を持たせられる。ただし、あくまでも展示会に付随するもので、ある種の特典との色合いがあって、ふつう特定の場所でしか販売されていない。どうしても出られない展覧会など、友人に頼んだカタログだけを手に入れたとの経験は、おそらく多くの人々に共有されているだろう。
展覧会の数だけカタログがある。したがってそれを個人の力ではとてもカバーできるものではない。それどころか、図書館の蒐集でさえ限界があって、必要なものを捜し求めるには、いつも戸惑いが伴う。その分、かつて十年、数十年おきにカタログそのものの目録が作成されていた。幸いここにも電子の恩恵が及び、オンラインで検索できるデータベースはいくつも構築されて、一昔とは環境が大きく変わった。
さらに一つ付け加えるとなれば、最近の展覧会カタログは、プレゼンを工夫するという傾向が顕著になった。そのおかげで、カタログにはつき物の「おとなしい」というイメージは、段々当てはまらなくなり、カタログのページをめくる楽しみがますます増えた。
つぎに行く展覧会は、サントリー美術館の「鳥獣戯画がやってきた!」だ。絵巻好きの人にはまるで夢のようなものである。はたしてどのようなカタログに出会えるのだろうか。
展覧会カタログ検索
東京文化財研究所:今現在、2006年8月31日までの近現代および古美術関係の展覧会カタログ22,762件が対象
調べ方案内
国立国会図書館:展覧会・展示会カタログ
2007年10月30日火曜日
展覧会カタログ
Labels: 展覧会へ行こう
2007年10月28日日曜日
応天門の火災現場
「伴大納言絵詞」、いうまでもなく絵巻ものの中の代表格のものだ。最近、これを解説するビデオを見た。ふつうなら一人で黙々と見るものだが、ちょっとした機会に恵まれて、大人数の若い人々と一緒に鑑賞した。部屋を暗くしてじっとスクリーンを眺め、まるで映画を見る気分だった。そのため、よけいに集中できた。その中で、とても短い一瞬だったが、ビデオの解説の文句に首を傾げた。
解説の対象は、上巻の応天門炎上の状況である。古代の象徴的な建築の火災というのは、それこそ心を揺さぶるような大事件で、日常生活にいた人々への衝撃の大きさは、今日のわれわれが想像するのを超えるものがあった。そして、絵巻のこの名場面は、まさにそのような状況を圧倒的なスケールで描きあげたことで、絵ならではの魅力を見せ付けている。ビデオは、その魅力の一端を、人物の顔姿に注目を勧める。これまたまともな読み方だろう。しかしながら、そのような精彩を富む顔の中から、ビデオが提示したものの一つは、右の一こまであり、しかもその解説には、「女性に良からぬことを企む男」といった内容だった。応天門火災の現場に、なんとチカンを見出そうとしたものだった。いくらなんでも、これはひどい。あきれて、古代の名作への冒涜とさえ思えた。
絵の構図を見れば、男の格好はたしかに目立つ。体の重心は前の女性に寄りかかり、視線の角度も心なしか周りの人々のそれとちょっと違う。歯を噛み締めて口をへの字にした顔つきは、深刻に見える。これに対して、前に立っている女性は、口を大きく開き、両手をおおげさに叩いて驚きと興奮を体いっぱいに表現する。二人の姿は対照的だ。しかしながら、ここに良からぬ男女の、あるいは男一人の快楽だとするには、あまりの飛躍だろう。たとえ二人の人物の間に体の接触や特別な関係を読み取れるとしても、二人は夫婦、友人、あるいはただ一瞬に男女の差を忘れてしまった呆然自失した極端な状態など、いくらでも解説の余地があるのではなかろうか。
一枚の絵の構図を理解するには、自然と複数の答えがありうるだろう。その読み方は、自由でなければならないし、人々の思いつかないものなら、読者をあっと思わせて、よりよい理解の手助けやヒントになることだろう。だが、解釈の自由も無限ではない。読み手の想像を拘束するものには、まずつぎの二つがあるだろう。一つは、絵の表現とは、つねに明快で分かりやすく、テーマの屈折を伴わない。いま一つは、表現したものは、時代の常識であり、人々に共有されたものでなければならない。
そもそもチカンとは、いたって現代的な犯罪だ。知らない女性の体を触ることによって快感を覚えるというのは、ある種の病気に近い。そのような病状を、なんの断りもなしに平安の絵に求めようと思ったら、あまりにも乱暴だろう。映画館を思わせる部屋に座って、映画のせりふではないだろうけど、「それでもやっていない」との叫びを聞いたのは、わたし一人だけだったのだろうか。
Labels: 画面を眺める
2007年10月23日火曜日
絵巻と御伽草子
絵巻と御伽草子、この二つの作品群の区別はどこにあるのだろうか。両者の間に一線を画そうとすれば、それははたしてなんだろうか。一見単純なようだが、かならずしも簡単に答えられるものではない。
「御伽草子」という名前は、もともと「渋川版」と呼ばれる出版物の名前だった。したがって最初に浮かんでくるのは、巻物か冊子本かという作品のスタイルだろう。しかしこの作品形態のことは、室町や江戸の人々にはさほど意味を持たなかった。現に「文正草子」や「浦島太郎」といった御伽草子の代表格の作品の綺麗な巻物は、かなりの数が作られ、いまでも日本や海外に多く所蔵されている。
つぎに考えられることは、絵のスタイルである。いわゆる「奈良絵本」がその典型だったように、絵は作品全体の分量に対して数が少なく、その構図も簡略になって、幼稚でほほえましい。多くの場合、絵のしろうと、あるいは意識的にしろうとの真似を取り入れた描き方だった。だがこれだってはっきりした区別の標準があるわけではない。絵巻作品群にも構図の幼稚なものがあり、御伽草子の絵巻には豪華な作りをもつのはこれまた数え切れない。
もう一つ考えられるのは、作品の題材だ。御伽草子の作品には、いくつかの代表的なテーマがあり、たとえば本地もの、異類ものといったようなものは、かなり似通った思考や趣向を見せる。いうまでもなく題材という捉え方自体が曖昧で、あるいは題材とはそもそも分類の基準になるような可能性を持たない。
これ以外にもいろいろと考えられるだろう。きっとその研究史まで誰かがすでに纏めたに違いない。
一方では、このような問いを出すこと自体には、それなりの理由がある。つきつめて言えば、絵巻という作品群の下限をどこに置くか、ということだ。言い換えれば、平安の院政期に現われ、鎌倉時代を通して数々の傑作を生み出したこの魅力な形態は、はたしてどこにその歴史的な終焉と認めるのだろうか。これの発生と隆盛に目を見張ると同時に、その衰退と消失にはあまりにも注目が足らなくて、大事なことを見落とした思いがしてならない。さらに付け加えるとすれば、「御伽草子」と呼ばれる、いわゆる「室町物語」という一群の作品は、形態的でも内容的でも、あまりにも強烈で異彩を放ったがために、平安、鎌倉と続いた絵巻の伝統までその背後に隠れてしまった、という要素も見落としできない。
最後に記しておこう。このことを考えさせてくれたきっかけは、慶應義塾大学が公開した「HUMIプロジェクト」だ。これの出現は、これまでの活字翻刻や断片的な写真紹介などとは異なる形で御伽草子の全容を覗かせてくれて、鮮烈なまでに御伽草子についての認識を深めてくれるものだ。
世界のデジタル奈良絵本データベース
Labels: 絵と巻物のからくり
2007年10月21日日曜日
百鬼夜行絵巻を享受する
タイトルに「享受」と書いたが、やや特殊なケースに目を向ける。すなわち普通の読者がどこで、どうやって絵巻を見るか、ということではなくて、近世の絵師がいかにしてこの絵巻を自分のものにしたのかということを、ここで一つの実例を通して考えてみたい。
「百鬼夜行絵巻」は時代の異なるいくつかの伝本をもつ。その中では、大徳寺真珠庵の所蔵本は作成の時期が早く、複数の模写本を擁していて、この絵巻の基準作とされている。
ここに、日文研は真珠庵本の上質な模写本と、これとはべつの「化物婚礼絵巻」と題するいわゆる百鬼夜行ものを二点所蔵している。両方ともインターネットでデジタル公開をしていて、後者の短い序文には翻刻まで添えて、感じの良い形で両方の作品を読者に提供している。
この二点の絵巻のうち、後者は明らかに真珠庵本かその系統の伝本を手本に用いた。全作を三巻に仕立てて、絵の分量ははるかに多い。さらに、ほぼストーリー性を認められない真珠庵本に対して、「化物婚礼絵巻」は、結婚と子供の出産という二つの状況を描きこんでいる。そのため、女性の化粧などの画面はそれなりに意味を持つようになった。一方では、器物の化物ということを表現する気力を持たないからだろうか、それにこだわることはなく、むしろ器物の表現については、真珠庵本系統のものにすでにあったものをそのまま受け継いだのみに留まった、という感じだ。その代わり、結婚式における新婦の所作、新しい赤ちゃんの入浴など、民俗的な生活を映し出す場面などは印象深い。
「化物婚礼絵巻」は、あきらかに「百鬼夜行絵巻」の内容を用いた。たとえばつぎのストーリーの結末の場面は、典型的な一例となる。右から二番目の鬼は、もとの絵巻にみる鬼の造形をそのまま使い、わずかに両手の位置を変えただけだった。それに左から一番目のキャラクターは、もとの絵巻の始めに登場したもので、それをそっくりそのままここに移してきたとの工夫で、むしろ絵師の遊び的な妙を覗かせてくれたぐらいのものだった。いうまでもなく、このように安易とさえ見られる絵の構図の流用は、当時の絵師にとっては、たいして名作をパクったといったような不名誉なものではなった。それどころか、ここまで生き生きと描くことができて、かつ思い切っての展開を見せたことで、大いに当時の読者たちを楽しませて、非常に歓迎られていたとさえ言えよう。
一方では、このような絵師たちの享受は、今日の絵巻読解に大切なヒントを与えてくれている。絵師のこのような作業は、一つの画面についての、当時の平均した理解を示してくれて、一種の絵による絵の注釈とさえ考えられる。下の画面について言えば、真珠庵本の終わりの火の玉は、表現として単純ではない。炎が燃えて、しかも火達磨の下半分という構図は、いくつもの解釈を可能にする。それに対して、「化物婚礼絵巻」は、同じ状況でも、赤い球形の頂点の一部を描く。これなら昇りはじめた太陽だとすぐに分かる。単純にして誤解が少ない。
いずれにしても、日文研本「化物婚礼絵巻」は魅力的な作品で、じっくりと読む必要が大いにあるものだ。
国際日本文化研究センター絵巻物データベース
立教大学人文科学系図書館蔵「百鬼夜行絵巻」展示解説
Labels: 絵と巻物のからくり