2009年10月3日土曜日

絵に耳を欹てる

絵巻のありかたを考える場合、絵を一つのメディアとして眺めるということは、さまざまな新たな視野を開けてくれる。メディアとしての絵に注目すれば、それに並ぶメディア、読むものなら文字あるいは記号やサイン、体の五感でアクセスするものなら音、味などがあると言えよう。

この中では、おそらく音/声のことが一番魅力的ではなかろうか。絵や文字とはまったく異なる次元のものでいながらも、一方では、読まれるものとはつねに互いに支えあうような関係にあって、緊密な連動が認められる。とりわけ多くの人間が文字を読めなかった、あるいは絵そのものに簡単にアクセスできなかった昔の時代であれば、音のメディアとしての役目がとりわけ際立った。

そのような音のことには、なぜかつねに一種の魅力を感じる。できれば、中世の、絵巻が盛んに読まれた、楽しまれた時代のことが知りたい。だが、どうやって探求すべきだろうか。録音という手段も、そのような可能性への想定もまったくなかった時代のこと、はたしてどこまで模索できるものだろうか。そもそもどこを出発地にし、試しの一歩を、どこから踏み出したらよかろうか。手探りの状態だが、その難しさでさえ一つの刺激に変わった。

じつは、これをテーマにしたささやかな論考を試みた。中世の日記から得られた実例、踏襲される表現様式にまで成長した絵の構図、絵巻作成にあたっての自覚と覚悟と、一つの絵巻をめぐるいくつかの側面を意識的に同じ土俵に並べてみた。その論考が先週出版されたことをここで報告したい。

『文学』第10巻第5号

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