デジタル処理とは、広い意味を持ち、しかもその意味が日を追って変わり続ける。古典の画像資料を対象としたそれは、したがってただ記録の媒体を在来の紙あるいはフィルムに取り代わってメモリー・ディスクを持ち出したには限らない。画像をスクリーンやモニターに映し出すのと同時に、人々はさまざまなかつて存在しなかったものに挑戦する。
その中の一つは、いわゆる三次元画像だ。代表的なテーマは、あの洛中洛外図が挙げられる。作品群の形をなす大きな数の名品の作成と伝存、実際の都市景観との対応、いまなお人々の生活が行われつづける時間の連続など、さまざまな要素が重なり、このような試みへの期待が明らかに感じられる。関西地域で生活していれば頻繁にそのような研究の進歩を時の話題として接することができる。たとえば日文研ではすでに十年以上前からこれを課題として取り掛かり、半年ほど前には、立命館大学動体計測研究会主催の研究成果報告会も行われた。
考えて見れば、目の前にある様子をこれから撮影しようと思っても、それを三次元のものとして仕上げるためには、特別な工夫を施さなければならない。突き詰めて言えば、二次元画像以上の情報を取り込まなければ、三次元画像にはならない。そもそも絵師の構想を経た、その腕前によって大きく左右された二次元の画像を三次元のものすることは、その根底においてかなりの無理が存在していよう。ただし、そのようなことを嘆いたり、不可能だと諦めたりばかりするのは、芸がない。そもそも人間の飽きない知的な願望がこれを支えている。不可能なものに誘惑を感じているからこそ、新たな可能性が隠されているものであろう。
あるいは一ヶ月ほど前に発売された一つの小さな新製品がヒントを示しているかもしれない。三次元写真を撮る、見せるデジタルカメラだ。レンズ二つのカメラなら、ずいぶん昔からあれこれとあったが、それがついにデジタル装置として生まれ変わり、しかもその気さえあればだれでも手に入れられるまで身近なものとなった。デジタルという保存と処理の手軽さ、画質の精密さ、ディスプレーなどの周辺装置との連動など、まさにわくわくさせるような道具の進歩である。現実生活の中で、新しいタイプの画像としてビジュアルの情報を記録し、使用し、それを楽しむということを通じて、新たな期待や習慣が身に付けるようになる。まさにその過程で古典画像を立体的に見る、見せることが現実性を帯びてくるのではなかろうかと、想像したい。
0 件のコメント:
コメントを投稿