この一週間、京都は桜満開を迎えた。その中で飛び込んできたニュースの一つに、あの「Googleアートプロジェクト」に日本の美術館・博物館がついに登場したものがあった。美術館へのデジタルなアクセスのこの新しいあり方を時折周りに説明しているだけに、日本の美術館の仲間入りは、この上なく心強い。しかも東京博物館など日本を代表するところが率先して参加していることは、嬉しい。
いまのところ、この「アートプロジェクト」で公開している作品数も、そして画像の画質でさえ、三年ほどまえから公開している「e国宝」には及ばない。しかしながら、美術館の所蔵品というよりも、美術館の中そのものを自分の足で歩き回るような、あるいはゲームなどでよく使われている仮想世界の中を散歩するような形で見て回るものだから、はたして現実なのか、それともデジタル世界の中の空想なのか、錯覚に襲われるところが、なんとも言いようがない。美術館の中についてのこの表現の方法は、いうまでもなくあの「ストリートビュー」の技術をそのまま応用したというだけのことだ。ただ、公開した街の風景と違い、密室の、見せるために構想され、構造される空間を対象にするとたんに、それはすでに「ビュー」(眺める)ではなく、「覗く」こととなり、見る行動にまったく異なる側面が付け加えられることになった。あのストリートビューでは、たとえば文章を読んだり、動画を見たりすることよりも、町角の様子を延々とずっと眺めていくというような使用の仕方がすでに行われていると聞く。それと同じく、あるいはそれ以上に、美術館を一つの完成された作品としてじっくり眺めていくというインターネットの使い方は、これによって可能になってきたことだ。
現在公開中の「アートプロジェクト」は、日本語ページはあることはあるが、英語の言葉を半分以上はただ単にカタカナ語に置き換えたのみのもので、分かりやすいというにはほど遠い。日本語ページでいなが美術館の名前は英語のままであったり、あるいはその美術館リストにたどり着くためには、「コレクション」という項目を選ばなければならなかったりなど、日本語の使い方を丁寧に守っていない。このような言語表現の未熟さをユーザーたちがどのように受け止めることだろうか。あるいはこれ自体、一つの新しい技術が生活の中にすこしずつ入っていく過程の象徴的な現象だと考えるべきかもしれない。
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